雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

ブログ記事の可能性と限界

ライターを続けつつブログも書く者として意識して使い分けている。商業メディアでは妙なことを書くと媒体の責任になるから、記事も慎重に書くし編集のチェックも厳しい。ブログは個人の責任で書くものだし、厳密な裏取りはせず、素早くさらっと書く代わりに、ネタ元を明らかにした上で不確実な事柄は断定を避け、指摘に対しては迅速に対応する。記事に対する反響や、誤りを修正するプロセスを通じて自分自身が事実に近付くことを期待している。今回も元記事を書いてこそ、虚偽もあったがTwitter2ちゃんねるへの書き込みを知り、最終的に元の音声まで辿り着くことができた。
そういった手法そのものが無責任だという指摘もあるが、限られた時間とリソースでタイムリーに物事を論ずるには現実的な方策ではある。終風翁のように一次情報が開示されずとも推論で嘘を見破れる方もいらっしゃるようで、試行錯誤を通じて騙され難くなりたいとは思う。一方で明示的に仮定と断って書いていることを「ソースが怪しげな情報を信じ込んでいる」といった調子で一方的に批判されると、事実を単純化することの必要性を実感させられる。しかし洞察とは、不確実な情報の中で括弧つきの事実に対して推論を積み上げていくことに価値があるのではないか。
今回47ニュースが質疑の録音を公開されたことは、事実に近付く上で非常に助けになった。編集前の素材・編集後の素材・文字起こし・要旨・所感の順で情報の密度が上がる一方で、どうしても記者の恣意性が入ってしまう。紙数や時間に制限のある新聞・雑誌や放送では要旨・所感しか押し込めなかったところ、ネットでは編集前の素材も含めて全て開示することも技術的・経済的に可能となる。今後は通信社の業務として記事の配信だけでなく、今回のような素材も流通することに期待したい。
取材することと編集することと、記事をつくることとは今でこそ垂直統合されているが、今後は水平分業型のエコシステムが育つ可能性があるのではないか。編集については既にヤフーを始めとしたポータルサイトが力を持ち始めているし、いずれ記事と取材の分離も進むかもしれない。同じ通信社から配信された編集前素材を元に、全く価値観の異なる媒体が別の記事を書くことも考えられるだろうか。
いわゆる一次情報は記者が録音するのか、或いは最初から情報発信者がブログやポッドキャストで情報を発信し、それが記事として加工されるようになるのだろうか。そのときマスメディアとソーシャルメディアとの力関係はどう変わっているのだろうか。物理的に生素材へのアクセスが可能となっても、記事製作に費やせる時間が決して増える訳ではなく、産業全体の規模としては伸び悩んでいる中で、こういった水平分業によるオピニオンの多様化は、長期的にメディアを身軽かつ強靭な経営体質とするか、或いは安値競争で疲弊するのかも気になるところ。
産業構造というと放送と通信の連携とかインフラを巡る議論に集中しがちだが、コンテンツ製作プロセスの変遷の方が意外と文化や権力構造に与える影響が大きいかも知れない。