雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

2つのシュッ・シュッの社会性を巡る考察

昨日も中部で11ヶ月の赤ちゃんが刺されて,小さなガキを二人も抱えた自分にとっては全く他人事じゃないんだけど,ああやって街中でシュッ・シュッするのと,こうやってコトバでシュッ・シュッするのと,同じ扱いをすることにすごく抵抗があります.
サラリーマンとして,或いは目的を持った論客として,敵味方関係なくシュッ・シュッすることが人生設計上,または目的遂行上,あまり賢い方法ではないのは確かで,TPOを弁えてタイミングよく弁舌さわやかにポジショントークできるスキルって大事だし,会社やコミュニティで日常的にシュッ・シュッしていると,途中から「またやってるよー」とスルーされてしまってお話にならない.だから,問題提起がスルーされない程度に数を絞ったり,議論の水準を相手に合わせたり,意図的に敵味方を決めて掛け合い漫才を自作自演したりとか,そういう戦術が時に重要だったりします.
ただ,街中のシュッ・シュッには大義がない上復元不可能なかたちで他人にダメージを与えるので御法度として,コトバのシュッ・シュッによって復元不可能なほどダメージを受けるような言論が流通し続けることは,本来あるべき社会の姿ではないと思うのです.だから「むぎ茶」がValley MLをシュッ・シュッして潰したとき,ぼくは「むぎ茶」に拍手喝采を送ったし,今も高木さんのblogは欠かさずに読んで,かなり共感しています.相手を論理的に叩きのめしたとき,人格を攻撃されたと勘違いする輩が多いのは,全く前近代的なことです.
確かに処世術として今の日本社会では,自分の主義主張を世の中で通していくために,空気を読んでシュッ・シュッを控えることが肝要ではありますが,そういう配慮がなければ言論がスルーされてしまうこと自体,時に我が国で起こるガバナンスの失敗や,集団的思考停止の大きな原因になっているという問題意識は持っていても良いのではないでしょうか.
すごく広く解釈すれば街中のシュッ・シュッも世相を反映しているのかも知れませんが,コトバによるシュッ・シュッには大義も活かし方もある上に暴力ではなく,街中のシュッ・シュッと同列に扱うこと自体,ムラ的な倫理が発想の根底にあるのではないかと感じています.