雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

子育てを優先するか,仕事を優先するか 或いは諦めない時間感覚について

ほりえもんが「土日がつぶれるから」という理由で離婚したという話をどこかで聞きかじり,さもありなんと思ったけれども,ソースは忘れてしまったしGoogleで探しても見当たらないので事実かどうかはわからない.

自分の場合,本業もブロードバンドの普及で「土日即レス当たり前」になりつつあるし,week dayにこなせない原稿とか講義の準備が溜まっているし,読みたい本がいくつも積読になってるし,周りの勉強会だの懇親会だのがガツガツ土日に入る.毎土日何らかの予定が入っているのを,かみさんに気兼ねして半分くらいは断って,家族サービスといっても毎度はっきりとした用事じゃないし,まったりしながら,自分はいま正しい優先順位で行動しているのだろうか,と悩んだり焦ることしきり.家族とまったりしている時間が惜しくてしょうがない.

家族で場を共有するにせよ,あるコミュニティで場を共有するにせよ,行き先の決まった旅行とか合宿とか,アジェンダの決まった会議とかもあるけれども,それらでさえ移動先や話すことになっている何かの順番が決まっているというだけで,実際はまったりと一緒にいること自体で,何かが飽和したり,腹に落ちたりするのだろう.ネットによって表層的なコミュニケーションの量は非常に増えたし,物理的に参加できるコミュニティの数や機会そのものは非常に増えたんだけれども,焦って色々なことをやってもどれも半熟になってしまって,何だか落ち着きが悪い.ただ忙しいとか,こんなことをやっていていいのだろうかという焦燥感ばかり増幅されてしまって,実は手や頭が動いている時間が実は短い.

という話をしたかったのではなくて,そうやって焦燥感に駆られつつ,よく自分が結婚したことは人生として正しかったんだろうか,と悩むことがあって,もし仮に結婚していなかったとしても下らない恋愛に胸を焦がして立場を悪くしたり時間をいま以上に無駄に使ったり,例によってあの調子でゴールデン街で飲み明かし続けていたら今ごろ肝臓を悪くして入院していただろうとか,そもそも生活費はそれほどかからないから転職していなくて,捨てたストックオプションが1000万円くらいにはなってて,どうせ泡銭だから下らないベンチャーに突っ込むか派手に遊ぶかしてすぐになくなっていただろうとか,どっかの大学院に入ってモラトリアムを続けられたかも知れないけど大して勉強はしなかっただろうとか,まぁそういうifを悶々と繰り返しては自分を納得させていた節もある.

ただ,その焦燥感というのは今の自分が社会でできることが,家族や特に自分の子供がこの先社会でやるかも知れないことよりも大きいという暗黙の前提があるのかも知れない,と気づいて愕然とした.自分は狭い意味でのカイシャには囚われていないと信じているけれども,もう少し広い意味でのキャリアであったり,社会と自分との接点には,多かれ少なかれ囚われている.しかしもっと長い目で考えたとき,実は自分の子供が自分に育てられて何を感じ,何十年後かに何をするか,ということの方が大事なこともあるのかも知れないし,少なくともポートフォリオとして,短期的に自分が社会に対して直接的にどう関与するか,という視点だけでなく,子供のように直接の因果で自分が生じせしめたものも含めて,社会の中でレールを引くことの重要性のようなことを痛感する.

連休で旅行に行った車中,暇つぶしにケータイから電子ブックで『勝者たちの羅針盤 執念のテレビ 技術者魂30年の闘い』を読んで,高柳健次郎氏が大正末期に浜松高等工業学校でブラウン管式テレビを発明したという話は知っていたのだけれども,撮像管開発で先を越されてRCAを視察,そこで得た知見から日本初のプロジェクト方式が導入されたこと,戦争でテレビ放送を断念している間に米国では商業放送が生まれ,戦後はGHQにテレビ開発を禁止され,公職追放で招かれたNHK放送技研に行けずビクターに入社,それが後のビクターによるVHSビデオ開発に繋がった,というくだりを読むと,10年以上も研究のブランクが空いて水を空けられても同じことに挑戦し,次のイノベーション(VHSビデオ)の線路を引く技術者の執念というのは凄みを感じるし,技術革新を生む気質が世代を超えて受け継がれていくことの時間感覚を,ひどく新鮮に感じた.

YahooやNetscape,最近だとGoogleの成功に憧れて,四半期単位の優劣に一喜一憂し,5年サイクルの技術革新に「あれも技術革新」「これも技術革新」だなんて右往左往しながら,ちっぽけな博打を打っていることが,かなり本質からかけ離れているのではないかと思わざるを得ないのだ.

その結論としていま何をすべきか.ガキを可愛がれ,後輩を育てろ,というのは総論賛成.じゃあガキを可愛がるというのは,時間をかけるのは大事だろう,数は多いほうがいい,けどカネを稼いでいい学校に入れることなのかという辺りから違和感を感じ始め,そもそもどんな風に育てたいってか,というところまで退行する.偉くなって欲しいとか,賢くあって欲しいというのは子供のためというより自己顕示欲だし,人様に迷惑をかけるなとか,犯罪は犯すなというのも,子供のためというよりは自分のためだ.そう考えると世代を繋ぐ,といったときに利他的に自分が子供にしてやれることというのは,まぁ感情に任せて怒ったり夫婦喧嘩が絶えないとかで感情をひん曲げるようなことなく,都度悩みながら育てていくぐらいのことでしかないのかも知れない.
後輩を云々というのも,会社では苦手である以前に機会がないのだけれども,授業相手の学生だとか,いくつかのコミュニティにいる仕事以外の後輩と広く捉えた場合も,それぞれの関係性のなかで対等に接していくしかないのだろうな,と思うけれども,自分は手取り足取り何かを教えてもらった経験よりは,無理難題を任されて這い上がったり,適当に駄弁っているなかで物事の捉え方とか議論の組み立て方を学んだものだから,活躍の機会をつくるなり,そうやって駄弁るなりといったことを地道に,同じ目線で続けるくらいだろうか.

と悶々と悩んでいる割に,あまり大した結論が出てくる訳ではない.ともかく,そろそろ三十路も近いし,フローとしての社会との関わり方だけではなくて,ストックとしての社会との関わり方も意識し始めるお年頃なのかも知れない,とか何をいってるんだか分からない曖昧な言葉で締めてみる.