雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

労働と熟練と競争と

今日,テレビ局に勤めるダンナを持つ同僚と昼飯を食べに行ったら「ぜったい私の方が働いているし,ちゃんとしたキャリアビジョンを持っているのに,のんべんだらりと働いている旦那の方が給与がいい」という話になった.いや,それは不公平だとは思うし,納得できないだろうし,きっとその給与は旦那が稼いでるんじゃなくて,地上波の独占利潤が山分けされてきた一部なのかも知れないけれども,いま儲かってるんだったら社員を安心させてくれる会社があってもいいんじゃないか?というような,とりとめのない話をして別れた.
僕のようにナメた働き方をしている堕落社員は別として,日夜全力で働いていれば,それほど働かず,競争やリスクにも晒されず,のんべんだらりと働いているひとよりも自分が報われなきゃ理不尽を感じても仕方ないとしても,実際のところ給与なんて自分の頑張りとは別のところで決まっているのだし,じゃあ労働市場や職場の環境に追い詰められて馬車馬のように働くこと自体がそんなにゴリッパか?とか何とかというと,それはそれで少し違うような気がする.
そんなことを考えていたら労務屋さんの日記で『働くということ - グローバル化と労働の新しい意味 (中公新書)』の書評をみつけて,やっぱりグローバリズム礼讃・リバタリアニズム万歳というのはシンプルな論理だけれども,最近何人かみてきた無念な思いのまま職場を去っていった人々との対話を思い返しながら,これはやっぱり何か違うんじゃないか,ということを強く思った.ただ違和感を感じるだけじゃ悔しいので,競争上等!目指せ労働市場の均衡!とは別の論理を,『虚妄の成果主義』のような時代背景を顧みない情緒的な年功序列回顧論とは別に組み立てなおし,あわよくばMBA系の市場主義者を騙せて「もう少し社員のことも大事にしてみるか」と考え直してもらえるような体系をつくれんものかなー,と,考えながら自転車で帰宅する途中,Loyalty Portfolioということを思いついた.
結論を先に書くつもりはなかったんだけど後半がダラダラしているので書いてしまうと,社員は会社なり業界なり職種なりの何がしかに対してはLoyaltyを持って無形資産を蓄積する必要があるし,企業だって雇用の流動性が高ければいいというものでもなくて,企業にLoyaltyを持った社員群,業界にLoyaltyを持った社員群,職種にLoyaltyを持った社員群をバランスよく採って,それぞれのキャリアパスに資する処遇を考えてあげるべきだろう,ということだ.
その場その場で頑張って成果を上げ,或いは資格を取れば次に進めるといった学校社会・経歴社会的なキャリア観はかなりガキっぽいというか現実からかなりずれていて,たぶん資格業界や生涯教育業界に洗脳されている.といっても昔のように会社が丸抱えで面倒をみてくれる訳でもなく,何がしかについてヨリ高い生産性を上げられるだけの比較優位を蓄積しつつ,それをどうキャリアに転化し賃金として回収していくかというフローとストック両方に目配せした発想で社員は能力構築に励むのが現実的だし,企業は企業で給料を永遠と上げるのが無理だから成果主義にしてみました,というのでは駄目で,成熟社会なりに,その場その場の競争も大事だけれども,君は将来なにを売りにして生きていくの?ということについて,社員に対してもうちょっとケアしてはどうか,ということである.みんなを一生面倒みろなんて無理はもういわないから,せめてみんなが人生に対してそれなりの予測可能性を持てるようにしようよ,という提案だ.

成果主義とか,それを支持する言説の多くは,遅れてきたグローバリズムという側面も確かにあるけれども,マクロ的には成熟社会のなかで持続可能な成長をどう実現するかという問題だ.多くの企業が一様に規模を拡大し収益を増やすという時代は終わってしまった.今後は,給料の減る中で汗をかいてもらわなきゃならない,そのためには,給料が増え続けるという約束はできないし,頑張ったひとの給与は増やすけれども,その原資のために多くのひとの給与は減らさなきゃならない,とこういうことだ.
米国でも1950年代くらいまではOrganization Manに書かれたように,大企業のサラリーマンが内向きに頑張り終身雇用・年功賃金で報われる時代が長く続いた.多くの企業,特に製造業は1970年代以降?日本をはじめとした諸外国に追い上げられてボロボロになる過程で終身雇用を諦め,そのフィナーレが1990年代初頭のIBM,2000年代初頭のHPによるリストラだった.ねぇそこの君,HP Wayってどんな意味だったか知ってる?
成果主義とか転職でキャリアアップとか自分の市場価値とか,頑張れば仕事で報われる世界では必要ない訳で,頑張ってもその会社で報いることが難しい,端的にいえば上が糞詰まっていて出世幻想を振りまくことが難しいから,一部の野心家はポストを求めて会社を超えてジョブホップせざるを得ないし,多くの普通なひとは給料が増えないのはリスクを取らない自分が悪いに違いない,と考えさせられるようになる.けれども根っこにあるのはファンダメンタルズであって,どちらが倫理的に正しいも糞もない.
陰謀論的な被害妄想を逞しくすれば,こういったイデオロギーを流布するのは学者であったり官僚であったり,国民経済が滅びる最期まで終身雇用・年功賃金を保障された社会で一握りの頭脳に恵まれた人々であって,これらの人々は成長期にあっては下々に馬車馬のように働いてもらって実体経済を拡大した方が豊かになれるけれども,経済全体がマイナスサムのループに入った瞬間,どう積み上れど減るしかない富を搾取するかを考えたほうが儲かる.そこまで深慮遠謀でなくとも,大企業の経営者たちから「給料を抑えないと中国にいっちゃうよー」とかちょっと脅されれば,日本のためと固く信じて大真面目に労働者が喜んで搾取される構図を描くだろう.
だからグローバリズムプロパガンダを垂れ流し「これから貧乏になるのはお前ら自身のせいだ」といっては大きくなるばかりの給与格差を追認していく.経団連の偉いさんがNEET対策と称して「若者の人間力を高めるための国民会議」なるものを開いたり「親が裕福だからNEETが増えた」なんて論調をワイドショーで聞く度に,やっぱ権力とはプロパガンダか,素でやってたらそれはそれで相当オメデテー国だな,なぁんて思ったりする次第.
成熟経済の中で企業が継続的に収益を上げ続けるためには,やっぱり年功序列・終身雇用は捨てなきゃならない,けれども競争万歳!といったところで所得格差は拡大するばかりだし,お偉いさんは傷を舐め合うような評価をしつつ,社内政治に長けた奴がマッチポンプで偉くなっても会社は傾くばかりであって,それなりに給与にメリハリをつけつつも,社員にとって予測可能な未来を提示していく,ということに,あと十年以上は日本企業は悩むんじゃないかなー,その辺の現実解ってどの辺だろう,というのが僕の基本的な問題認識だ.
たぶん,気に入らないのは競争という曖昧なキーワードでもって格差を一括りに合理化してしまうことだ.確かに労働市場の中で給与は交渉によって決まる側面もあるけれども,それは一断面であって,職業倫理であったり,公平感であったり,どう中長期的な期待を形成してモチベートするかといった別の因子も同じかそれ以上に重要となる.
実際のところ企業は,何通りかの人材を必要とする.社内に通じた人材も必要だし,業界に通じた人材も必要だ.企業単位でみればジョブホップしているようにみえても,業界なり職能カットでみると,どこかしらで一定しているところがあるのではないか.それがないと,いつもゼロからのスタートになってしまって,給与は増えないからだ.よく週刊誌に出てくる犯人像で「職を転々とした挙句,云々」といった感じで.そういう疎外は,それはそれで重要な社会問題かも知れないけど,ここではもっと普通の人々を対象に考える.
だから,確かに成熟社会に於いては転職を通じて給与が増えていくことが多いのかも知れないけれども「会社を変わる=キャリアアップ」という視点以上に,ジョブホップが多ければなおさら「何は積み上げるか」ということへの拘りが重要になる.それは人脈であったり業界に対する知識であったり,人との接し方であったりするのだろうけれども,変えずにきてコツコツと積み上げるものにfocusしたキャリア・ビルディングというのが必要なのだろう.
もちろん,企業の中で社員同士の競争が必要なこともあるだろう.けれども,特に知識産業に於いては個々人の仕事を同じ尺度で測るのは難しいし,長らく年功賃金の微温湯が続いた日本でフェアな人事評価のできるマネージャは決定的に不足しているではないか.目の前でガキっぽいマッチポンプ仕事が繰り広げられているのをみて,人材の流動性が高まったときに,評価制度以前の問題として繰り返しゲームでない世界で,どう中長期的な会社の利益を犠牲にしないかたちで短期的な評価を行い得るか,僕はとても悩んでいる.幸い僕には部下がいないので,とても意地悪い目で眺めて楽しんでいる,のかも知れない.
3年前,ネットバブルが弾けて潰れかかった会社で,会社が潰れかかっても一向に働く気配のないエンジニアをたくさん眺めていた僕は,会社がぼくの考えどおり人月単価を抑えて稼働率を上げる方向に向かった瞬間「あー,これで会社は潰れないかも知れないけど,もう忙しくなるばかりで給与は増えないな」と思って辞めた.いちおう人事部に掛け合って成果主義っぽい賃金体系を提示して跳ね返されたところで先に辞めた元同僚に唆されて辞めた.
いまの会社の雰囲気は本や知り合いとの話である程度知っていて,会社としては儲かりまくっていて頑張ろうが頑張るまいが潰れる心配のない会社で働く人々が,大きなキャピタルゲインを狙える訳でもないのに,どうしてあんなに頑張って働くんだろうかとても不思議で,そこに何か学べる人事のノウハウのようなものがあるのではないかとか期待を持って入社した.そこで分かったことは,そこの賃金体系は前の会社で雇った外資系の人事コンサルが提案してきたのと似たような内容で,まぁ代わり映えがしないというか,みんな似たような体系でやってるんだなー,と再確認しただけだった.前の会社で外資系コンサルに提案された人事制度を気に入らなかった理由は,

  • この賃金体系はマネージャが正しく部下を評価できるという前提に立っているけれども,その会社ではそういったマネージャと部下の間での信頼関係は成立していない
  • 日本的な職場風土のなかでJob Descriptionが正しく定義されることを期待できないし,決めたJD通りに運用・評価されることを期待できない
  • Job Gradeが現行賃金に基づいて決まった場合,単にいまの序列を固定化するだけではないか

というような理由だったから,外資系で外資っぽく運用すれば,これはこれで機能する合理的な制度ではないか,というような気がしたのだ.けれども分かったことは,資本的には外資であるこの会社も,制度は外資といっても多くの人はマネージャ含め日本企業からの転職組なのであって,社員の多くも日本的な職業倫理を持っているし,制度も非常に日本的というかかなり恣意的に運用されている.けれども,会社としては儲かっているし,社員もよく働いている,ということだった.
儲かっているのは単に製品力の問題かも知れないけれども,よく働くのはどうも制度の問題じゃないぞ,と.で,よく働くひとの話をよく聞いてみると,自分なりに仕事にやり甲斐を感じていたり,もともと責任感が強かったり,責任感が強いので頼んだ通りに仕事をこなしてくれるというので,Job Descriptionを超えてどんどん仕事が降ってくる,というようなことが分かってきた.制度と運用がフェアで透明で成果が報われるから人は働くというような経済学者の妄想する合理的経済人は世界を数学的にモデル化する上では非常に便利だけれども,みんな人事制度にそれほどはっきりとした関心を持っている訳ではなくて,何か信じるものがあって,仕事にプライドを持って,自分のために頑張るんだよなー,と,考えてみれば当たり前のことに気付いた.
賃金に極端なメリハリをつけなくても,安定した環境で目標があったり周りから頼られれば,よく働くひともいるのだ.そういう真面目なひとは,ブランド力があって安定している大企業を目指す場合が多いのだろう.フェアで安定した賃金を払えて仕事にプライドを持ちやすいのは儲かっていて知名度のある会社であって,多くの企業は欲しい人を採るために前職からの賃金をスライドさせて,みんなが互いの給与を知れば暴動が起きるようなチグハグな賃金体系である場合も少なからずあるし,利益が出ないことには頑張っても報いようがないし,普通の会社なら社会の色々と理不尽なこととか矛盾と向かい合って仕事する場合が多いんだろうから,なかなかナイーヴに自分の仕事に誇りを持ち,頑張れば報われると信じることはなかなか難しい.
賃金の問題にしても,しばしば経済学者がモデルにするような,それ自体が効用関数という場合よりも,賃金比較に於けるプライドの問題の方が大きい.賃金そのものを効用関数とした競争モデルが実態にそぐわない例を挙げれば枚挙に暇がないが,例えば高度成長期,微温的な年功賃金の下でも同期の間で激烈な競争が起こったし,一般に身の回りで社員がリストラされると,みんな競争心を煽られて頑張るどころか士気はかなり下がる.
だから,成果主義がどうとか,制度をどうしろという問題よりも,徐々に一様に賃金を上げていくことを通じてみんなの士気を上げることが難しくなる中で,人々がどうプライドを持って,経験を積みながら安心して仕事に打ち込めるか,ということ,そういう社会に対する信頼を恢復することこそ,いま最も求められているのではないだろうか.
そして,そういった社会への信頼の恢復には,キャリアの予測可能性やいくつかの目標設定が必要であって,市場主義礼讃や雇用の流動化,即戦力採用の増加と職場教育の放棄は,いまのところ明らかに,そういった信頼を損なう方向に働いている.年功序列・終身雇用という従来の信頼の根拠を維持できないのであれば,せめて職能なり,人脈なり,実績なり,何かこれを積み上げていけば未来が拓けるよ,ということを身近なかたちで示していった方がいい.会社でなくてもいいから,業界なり,職種なり,望めば留まり続けられるようなキャリアの拠り所を探せるようにした方がいい.
みんな現在よりも未来に支配されて自分の行動を決めている,それが人間だと思う.NEETの連中にしても,怠慢だから悪いとか,誰かがあぶれるんだから君たちに責任はないとか,君たちを放っておくことは日本のためにならないとか,そういう戯言を吐いても状況は変わらない.彼らは雇用からも,希望からも弾き飛ばされて,社会を信頼できないから雇用機会にアクセスしようという意志を持てないのだから.
いま必要なのはNEETであっても,激務に耐えて働きながらノンベンダラリとした生活を送る周囲を軽蔑したくなることもあるイワユル「勝ち組」にとっても同じように,社会と自分自身の未来に対する信頼の恢復ではないだろうか.マクロ的に競争的な賃金を導入せざるを得ないことは認めざるを得ないにしても,それはナイーヴな市場主義の倫理的正統性を裏付けるものでも何でもないし,そういった言説が跋扈し,所得格差の拡大によって実感されるとすれば,たまたま仕事に手応えを感じる一握りの連中だけが頑張り続け,それさえいずれ歯車が噛み合わなくなってくるのではないか.
繰り返すけれども,いま必要なのは,格差の正当化よりも,社会と未来と自分への信頼の恢復だ.格差は正当化しなくても勝手に起こる.そこで上澄みの側にいなくても,ひとつの職場に留まることが難しくても,どこかしらに帰属しているという安心感や,何かを積み上げていこうとおもえる希望や,経験を積み重ねていくことに対する手応えを感じながら,社会から降りずに地道に生きていけるような仕組みが必要だ.それは就業機会の保障や、最低所得の保障といった経済学的なセーフティーネットだけで贖えるものではない.
とか何とかいっちゃって,労働組合ひとつ組織できずに世の中や会社への不平不満をblogに書き散らすヘタレが何を偉そうに,とか書いていて自分に思うし,自分がこういうことに気をもむこと自体,進学校の高校生に限って学歴社会が云々と大上段に青い議論をしていたのとさして変わらないあざとさがあるよなー,という自覚もあるのだけれども,毒を持って毒を制すというか,かなり如何わしい一見論理的な言説に対抗できるのは,別のメンタリティを持った口舌の徒ではないかという気もするのだ.