雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

誰がPCを不自由にするのか

http://d.hatena.ne.jp/masays/20050618
いや,釈迦に説法と分かって書くんですが...

しかし、そもそも裸のコンピュータにアプリケーションレベルでのDRMを載せることはどれほど意味があるんだろう?

あえてマジレスするとDRMを欲しがっているのはコンテンツホルダで,DRMをサポートすることで実際に配信されるコンテンツが増えたのだから,それが気休めであったとしても,充分に意味はあったのでは.

僕は、そんなお行儀のよい仕事は情報家電みたいなものに任せて、PCを含めた裸のコンピュータはもっと自由な仕事に専念させた方がよいと思う。

ケータイや情報家電がこれだけ高度になってくると,「自由な仕事」「創造的な仕事」のための道具としてのPCを押し出すことはとても大事だし,IntelMicrosoftもその辺を押さえた広告を展開している.ただ,商売としては間口を広く取った方がいいし,映像配信とかは市場の拡大している重要なニーズのひとつで,みすみす見逃す理由はない.
だいたい,Windowsは1990年代後半からストリーミング配信とDRMを提供してきたけど,情報家電は技術的に可能であるにも関わらず,未だにそれをやろうとしていないのだから,そもそも任せるとか任せないとかそういう話にさえなっていない.
その辺の縄張りは市場で決まるべき話であって,政府が無理に仕切ろうとしても,業界のためにはならないのではないでしょうか.規制によってしか生き残れない技術が世界に通用するとも思えず...
情報家電向けネット配信について,メーカー任せで前に進まなかったという経緯を鑑みるに政府のイニシアチブで足並みを揃えるところまでは賛成だけれども,ある配信の経路に放送を使うべきかブロードバンドを使うべきか,端末にPCを使うべきか情報家電を使うべきか,ということは,あくまで技術中立的な規制に止めて,あとは市場での競争に任せるべきではないでしょうか.

PCをお行儀よくさせたいMSやその他のベンダーの仕事は技術的には尊敬に値すると思うが、それがコンピュータ自身を不自由にしていくという面に危惧をする。

危惧は分からないでもないし,この辺はGizmodoのビルゲイツに対するインタビューとも微妙に絡むんだけど,今のところPCってそんなに不自由になったのでしょうか.今だってWMAだけじゃなくMP3もQuick Timeも再生できるし,Winnyも普通に起動する.SP2からセキュリティ対策の一環で,標準でFirewallや自動更新がonになったけど,それさえ外す方法はある.
商売なんだから下位互換性のこととか,利用者のニーズを考えると,仮に技術的に不自由なPCをつくれても,消費者のニーズを無視したものにはできない.逆に情報漏洩対策で企業向けに「不自由なPC作成キット」をつくることはある.そこには需要も社会的意義もあるからだ.
だいたい昨今の「不自由なPC」特需は,住基ネット騒動のと飛はっちりで世界にも類をみないほどガチガチな内容となった「個人情報保護法」施行に端を発していて,決してベンダ主導ではなかった.だから,コンピュータを不自由にしようとしているのは業界や政府であって,ベンダ自身ではない.少なくともこれまではそうだった.ベンダの責任を問うのは,武器商人の戦争責任を問うようなものだ. (逆説的な意味で,その程度に当事者ではある)

レッシグが言うCODEという権力のあり方は、少なくとも有力ベンダーに依存してPCを使わせてもらっている僕ら一般ユーザであれば認めざるをえない。しかし、そこには選択の自由があるわけで、そんなOSは買わない、そんなアプリは使わない、そういうことがPCならできる。そういう意味で、PC上で実現されたDRMとはある種のまやかしに過ぎない。ユーザがOSを選択でき、アプリを選択できるマシンにDRMはありえない。

どんな暗号だって原理的に破ることはできるし,それ以上にDRMを破るのは簡単だ.ハードでもソフトでも大きくは違わない.OSを選ぶことはできるけれども,だからPCのDRMがありえないという議論には飛躍がある.確かにユーザーはWindowsの入ったPCに簡単にLinuxをインストールできるけれども,そうすればWindows上ではDRMのかかっていたコンテンツをLinux上で自由に再生できるという訳ではないからだ.

LessigのCODEでの議論を引くのであれば,ベンダ自身がCODEでユーザーを支配することよりもむしろ,ベンダが業界や政府の要望を受けて,ユーザーの望まない形でPCを不自由にしていく可能性を懸念すべきではないか.LessigのDRMに関する議論もそういう文脈だし,例えば最近ホットな話題としては中国政府によるBlog規制などの例もある.

例えば対テロ戦争の最中,流行りのデスクトップ検索は,政府が全てのPCのハードディスク上にあるファイルを効率的に監視する上で格好の道具となり得る.既に行われている自殺阻止のためのアカウント開示と,テロ予防のため国民のハードディスクを全て監視することとの間に,どれくらい政治的ハードルに違いがあるというのか.
いずれハードディスク上のデータは「通信」ではないので,テロ対策のために政府が検閲しても憲法違反に当たらないとかいう議論が大まじめに行われていても,僕は驚かない.ただ困惑するだけだ.都内でちょっとしたテロが起こって死傷者が出れば,世論対策もばっちりではないか.こういうとき,強靱なリベラリズムの必要性を痛感するのだけれども,僕のようなヘタレは,この流れを薄々勘づいていても,どうしていいか分からずにいる.
なかには検閲されたくないからデスクトップ全文検索機能を外すとか,そもそも全文検索機能も監視エージェントも入っていないことを確認した別のOSを使うといった選択肢を選ぶひともいるだろうし,僕がテロリストだったらそうするだろうけど,多くのひとは後ろくらいこともなく,便利な機能を便利な機能として使うだけだろう.そして,その機能を使っていないユーザーを重点的に監視するだけでも,監視の手間は大いに省くことができる.