雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

「エリート教育」改め「学校の脱学校化」或いは「個別教育」の可能性

もはや往復書簡になっていますが...
清水さんが行きたいかどうかは別として,彼のプログラミングスキルと問題解決能力を欲しがらないIT企業はそうそうないと思うのですが...
ところで清水さんの定義でいくと,例えばハーバード大ドロップアウトしてマイクロソフトを興したビルゲイツも,和光大学ドロップアウトしてASCIIに入社した古川さんも,いわゆるエリートには入らない訳ですね.
僕は清水さんのエリート観は,工業化で過度に学校化された社会に於ける一類型に過ぎないという立場を採るけれども,エリートの語源となったフランスでもENAを出ているか否かでキャリアに雲泥の差が出るらしいし「レールに乗っていること=エリート」という語感は確かに幅広くみられるので,もうちょっと言葉に注意することにします.
ぼくは,旧来型のエリート,いわゆるレールに載ったひとが活躍できる場も引き続き残る一方で,歴史に於ける重要な変化は,そういった組織人から個人に移りつつあると感じています.実は大規模な官僚組織というのは,近代初期では政府や警察,軍隊といった一部の公共部門に限られていて,民間では膨大な小企業が犇いていました.これが産業化の過程で大企業が生まれ,存在感を増し,民間でも所謂ORGANIZATION MANのような人間類型が生まれてくる.
政府や軍隊など,引き続きこういった世界は残り続けるけれども,情報化によって重要性は薄れるのではないか,少なくとも歴史を変える主役は彼らではなくなるというのが僕の仮説です.それは梅田さんと続けているチープ革命を巡る議論でもあるし,チープ革命を待たずして,IT産業のイノベータはAT&TIBMXeroxといった巨大官僚組織から,MicrosoftNetscapeGoogleといった,異なる文化を持った組織へと変わってきています.彼らは少なくとも歴史を変えた時点でみると,旧来型の官僚組織ではないし,そこでの主役はORGANIZATION MANではないのです.
現在の教育システムは工業社会のインフラをつくるために設計されています.小学校で教えることは,実は国語や算数よりも,時間を守ること,集団で整然と行動し,先生のいうことを聞くことです.この辺は遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成を読むと非常に面白いのですが,明治時代半ばになるまで,日本人は今のような時間という感覚を持っていないのですね.なぜ時間を守る必要が生じたかというと,ひとつは鉄道のダイヤを正しく運行すること,もうひとつは工場を定刻通りに運営することでした.そして時間を守る労働者を育成するために,近代学校教育が組み立てられました.古い駅舎や校舎の目立つところに大きな時計があるのは,そういう歴史的背景があるのです.
僕の問題意識は,情報化の過程で産業競争力の源泉が,時間や規律を守ることから別のことに移行しつつあるのであれば,教育の目標設定や設計そのものを大幅に見直すべきではないか,ということです.レールに乗ろうとする人々の努力が今のように空回りせず,もっと強い国際競争力を持ち,国益に資する形でその能力を発揮できるような環境をどう整えるべきか,ということです. (つづく)

あと、前にもこのblogで書きましたけど、エリートというのは、レールの上に載った、載れる、その資格があってしかもそれを努力によって行使してきた人、の総称ですからね。僕のようにアウトローでたまたま遊びでやった仕事のひとつが当たって、人間としてまっとうな教育をうけるまえに調子にのっていたら、気がつくと入れる会社がなくなっていたという悲しい境遇を「勝ち」だなんてとても評価できません。

ある社会や集団の中で、そのすぐれた素質・能力および社会的属性を生かして指導的地位についている少数の人。選ばれた者。選良。

フランス国立行政学院 (École nationale d'administration)はグランゼコール(Grandes Ecoles)でフランス随一の超エリート官僚養成学校。略称 ENA (エナ)。 第二次世界大戦後に設立され、歴史は浅いがフランス社会において絶大影響力を持っていて、ENAを出たか、出ないかでは天と地ほどの差がある。
ここの卒業者をエナルク Enarque と呼び、政権中枢をエナルクが占めていることをエナルシー Enarchie と呼ぶ。