雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

意欲を喚起することの重要性について

「三歩下がって師の影踏まず」といわれていた時代と比べ,先生にはやりにくい時代となったものです.昔は知識を得ること自体が貴重で,先生は偉かった訳ですが,いまは世の中に情報が溢れていて,先生の権威はなくなってしまうし生徒の意欲を喚起するところから始めなくてはならない.
けれども,裏を返せば,これだけ時代が変わったにも関わらず,旧態然とした教え方は変えずにきたから学級崩壊だの学力崩壊だのといった問題が起こるのであって,もっと客商売らしく時代を先読みしろよと思います.
そういった意味で,清水さんが指摘されているような教育のあり方というのは非常に理想的だし,少なくとも導入のところでは,かくあるべしと考えます.情報処理の授業が講義形式で行われていること自体まずは見直すべきでしょう.

なぜかというと、なにかを学ぼうとするときになによりも重要なのは「興味」であって、「基礎」ではないと思うからです。
要するにいろんな可能性、無数の可能性を示してあげて、そのなかから「あ、これは面白そうだ」と興味を持ったものについては、ちょっと意欲があって頭の良い子ならば、どんどん自分で情報を探しに行くのです。
ゴールも見えず、意義もわからず、そこにいたるまでの道筋もわからなければ、人間の学習意欲というのはそれほど持続しません。

清水さんがいわれているように,意義が分かることがとても重要です.そういう意味で,オフィスワークしている訳ではない小中学生にワープロ表計算を教える,というのでは動機付けが難しいし情報リテラシーという言葉を履き違えていて,例えばSqueakあたりで絵を描かせてから「こうやって動かせるんだよ」とeToysの使い方を教えた方がいい.
その中からデザイナーやクリエーターを志す子もいれば,なかには仕組みそのものに関心を持ったり,自分でMorphをつくろうとして自然とSmalltalk Hackerになる子も出てくる,そういうのが理想でしょう.

やっぱり子供がなにかにある程度以上の興味を持ったら,あらゆる情報を無限に引き出せる環境を与えてやるべきだと思うのです.
あの頃インターネットがあれば,僕の人生ももっと変わったものになっていたかもしれません.なんていうとジジくさいけど,やっぱりそう思ってしまうのです.

ぼくも,それは非常に強く思います.一方で,誰もが何でもやっているということを知れば知るほど,身の回りではなく,世界で輝いているひとばかりみてしまうほど自分の非力さを感じたり,自分の出番をみつけられなくなってしまうこともあります.そういう時は案外「案ずるより産むが易し」だったりするのですが.

楠さんは僕がどうしてそこまで「車輪の再発明」を目の敵にするのか、不思議に思われるかもしれません。

ぼくも車輪の再発明は大嫌いです.英語を学ぶことで,車輪の再発明をより多く回避できることにも合意します.
一方で学習のために特には車輪の再発明も必要だと感じています.本当に斬新な発明をできるのは相当まわりがみえてきてからだし,大概は誰かしらが考えたりつくっている以上,車輪を探してばかりいると,いつまで経っても何かをつくろうという気持ちになれないからです.残念ながら僕はこの罠に嵌って,評論家然とした関わり方をしている領域が多いです.
学習の過程でも教科書通りに真似るだけでなく,時には自分で汗をかくことも必要です.そして,自分が必死になってつくったよりもよいものが既に世の中にあることを知って悔しい思いをしてこそ「これからはもう車輪の再発明はしないぞ」と決意するのではないでしょうか.