雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

to have or to be

最近Web 2.0的な世界でのIT投資の行く末を端的に表現するコトバを探していて,予備校時代にハマっていたフロムの『生きるということ』を思い出した.原題の"To Have or to Be? (Bloomsbury Revelations)"というタイトルが気に入っていたのだけれども,改めて読み返してみるとすっかり古くなっていて結論部の政治提言は時代錯誤だし,いま読むに耐えるのはごく一部.まだ同時期に読んだ『脱学校の社会 (現代社会科学叢書)』の方が示唆に富む.ただ"to have"から"to be"へというのは,今後のIT投資を考える上で非常にいいコンセプトとなりそうだ.
つまり長い間IT投資というと,何を持つかだった.速いホストコンピュータを持つ,IT部門に○○のスキルを持った優秀な技術者を持つ,様々な最先端の情報を持つ,といった「持つ」ことを通じた差別化戦略が基本だった.しかし,今後はどう「ある」かの方が重要となる.革新的であるか,俊敏であるか,必要とされているか,信頼されているか,といったことは,何を持っているかではなくて,いまをどうあるかによって規定される時代が来つつあるのではないか.
その背景としては,チープ革命と総称されるような価格構造の変化,技術・人材などの流動性の拡大,トップノッチの個人がエンパワーされたこと,などが大きい.ストックによる差別化が難しくなるほど,企業は資産や人材蓄積ではなく,成長性や収益性,社会性で評価されるようになる.それによって従前ではストックが制約条件となった人材や資本を調達できるからだ.もはや,持ってることで安心などできないし,持たざることを言い訳にもできない.
個人も同様に,どんな経歴やスキルを持っているかよりも,何をどう感じ,そしてどう生きているかを問われるようになるのではないか,という仮説を持っている.最近よく仕事をしていて,スキルや能力よりも,自分の中の潜在的な制約とか私利私欲がボトルネックになっているような気がしていて,もっと自分や周囲を信じて,思うところの方に突っ走らないと,と自戒している.
器といってしまうと今も昔も変わらない気もするけれども,他の諸々のムラ社会的な制約が,情報の非対称性の縮小によって崩壊し,或いは容易に崩壊せしめるようになったことと,いろいろな可能性がこれまでよりもちゃんと可視化されるようになったからだろうか.
器というのはなかなか拡がるものでもないのだろうけれども,自分の器を可視化されてしまうと,そのなかでどう自足するか,或いは器を拡げるためにいま何ができるか,といった方向に頭を使うことになる.これはこれでストレスフルだけれども意味のある悩みだ.きっと人間は可能性を感じることにだけ悩むことができる.勘違いであっても,心のどこかで口説けそうだと思うから惚れる.だから悩みとは,本質的には希望なのだろう.