雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

日本のソフト産業: 重層的な下請け構造とビジネスモデルの不在が課題

幻滅して開発の現場から逃げ出した,評論家面したコンサルタント崩れとしてひとこと.吉岡さんの問題意識には一理あるし,コーディングできない元請の技術者やコンサルタントがあんな高給で,プログラマの給与が低いのはどうよと思うけれども,だからって設計もコーディングもできる奴が両方の仕事をやるべきだというのは,優秀な技術者の独りよがりな意見じゃないかな.教育に改善の余地はあるにせよ,世のなか優秀な連中ばかりではないのだ.それに何故コーディング経験のない人間が設計しているのか,設計力のない人間がコーディングしているのか,ということはよく考えたほうがいい.とっても非効率なのに.
理由はいろいろあるにせよ,ひとつに仕事の結果ではなく,かけた時間で価格の決まる人月商法がある.ではなぜ人月商法が蔓延るかというと,重層的な下請け構造のなかで,最終的な工数が曖昧なまま仕事が丸投げされ続けるからだ.ではなぜ重層的な下請け構造があるかというと,零細ソフト会社システム開発期間中のキャッシュフローも,パッケージソフトの開発に必要な投資もファイナンスできないし,元請は元請で下請け企業の技術力をちゃんと評価する仕組みがないので,どうしても取引関係に基づく信頼に甘んじてしまう.
経済産業省も問題意識は持っていて,IPAを通じて融資制度とかマッチングファンド等,いろんな取り組みをしているけれども,リスクに見合わない有利な条件の投融資によって,却って海外のVCや民間金融機関を日本のソフトウェア産業から遠ざけてしまったという見方もある.後者についてもITSSや下請法など様々な取り組みがあるけれども,改善の目処は立たない.
ソフトウェア産業の振興というと,IBM独占禁止法で訴えられてソフト・ハードの分離が進んだ1970年代以来の政策課題だが,なかなかうまくいかないのは何故だろうか.資本がボトルネックで後発ほど新しい設備の高い生産性で競争優位に立てる製造業に対し,ビジネスモデルやルールチェンジが重要で,単なる後追いではコストでもネットワーク効果でも負けてしまうソフトウェア産業で,製造業での成功体験に囚われてキャッチアップ路線を続けてしまった上,ICOTやSIGMAといった度重なる巨大プロジェクトの失敗を個別論や技術動向の読み違えで片付けてしまい,ヨリ構造的な問題を棚上げにしてきたせいではないか.
ここ数年のオープンソース振興も米国の流行を数年遅れで追っかけているだけで,活路がみえてこない.ハードウェアばかりコモディティ化してソフトウェアの価格が下がらないのはけしからん,という気持ちは分からなくもないけれども,WindowsLinuxをぶつけたところでDellやHPとの価格競争がなくなる訳ではないのだ.
しかもオープンソースのように価格障壁のない新しい技術では,ソフト・サービスでも中国・インドといった新興国に価格競争力で負けてしまう懸念もある.日本では給料が高く頭の固い技術者にオープンソースを勉強してもらわなきゃならないのに,後発のインドや中国は低賃金で頭の柔らかい学生に,フットワークの軽い教育機関が最先端の教育を施している.日本が先進国としての優位性を生かすには,国内市場では消費地に近いことを生かしたサービスとしての付加価値を高め,資本装備率を高めて生産性を向上させるべきではないか.例えば製造業では,そうやって国内生産を残している.
お役所が過去の失敗に学ばず,何年かおきに違うネタをみつくろっては米国を追っかけて流行語をつくるのにかまけている間は,日本からNetscapeGoogleのような会社が生まれてくることは難しいのではないか.そして,プログラマーという仕事を魅力的に感じるロールモデルがもっと現れないと,もっと優秀な人材がこの業界を志すようにはならないだろう.個別の現場での個人の資質についてわたしもいいたいことはたくさんあるけれども,これは基本的に産業構造の問題だ.
ハッカーをたくさん育てるのもいいけれども,彼らの活躍できる,彼らの価値が生かされ,ちゃんと対価をもらえる場が国内で育たなければ,やりがいや好条件を求めて頭脳流出してしまうことが目に見えている.個人的にはそれでも別に構わないけれども,それを日本のためといえるかどうかは疑問だ.

日本のソフトウェア産業の競争力を奪ったのは工程の分離だとわたしは思う。コーディング経験のない人間が設計をしてはいけないし、設計力のない人間がコーディングをしてはいけない。
(略)
日本と言う地域に必要なのは評論家面したコンサルタントではなくスーパープログラマだとわたしは思う。