雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

中等教育を実学に振るべきかどうか

中学で留年,高校を中退,大学でも留年した落第生として,三児の父として,教育には一家言を持っているつもりだ.僕自身,いまのところ人並み以上に世間を泳げるだけの学ぶ力や生きる力は中学・高校の時に学んだつもりでいるから,これからの高校がどうなるか,我が子がどんな高校生活を送るのかには非常に興味がある.
自分の経験という非常に狭い視野で考えると,生きる力は今の普通高校でも,本田氏の提案する専門性を持った高校でも育みようがある気はする.『世の中を渡ってゆくための「足場」や「力」や「武器」や「殻」』は専門的な職業能力よりも,学習能力や論理的思考力,対人関係能力であって,これらは普通過程でも専門課程でも,いろいろなやり方で教えることができるからだ.
ぼくが中学・高校に通った十数年前と比べて,学校や教師の権威を支える共同幻想そのものが崩壊しつつある中,もういちど教育にリアリティを持たせる意味で,本田女史の主張する専門課程の充実というのは,ひとつの方法となりうる気はする.それに,いまどき生徒に対して『世の中を渡ってゆくための「足場」や「力」や「武器」や「殻」』を伝授できるのは,大学を出て先生しかやったことのない世間知らずの秀才君*1ではなく,場数を積んだ社会人のはずだ.これから団塊の世代が引退し,教職採用は増えるけれども,新卒枠を増やすだけでは質の低下が避けられない.高校を再編して専門性を持たせる過程で,『世の中を渡ってゆくための「足場」や「力」や「武器」や「殻」』を伝授できるような社会人を積極的に呼び込むべきだろう.
懸念点としては,早い段階で専門分化しようとしたとき,子供の頃に「なりたいもの」というのは非常に狭い社会認識に基づいている.高校教育が専門分化し,企業がますます職業教育を行わず即戦力志向を強めるようになると,15歳の時点で自分の将来を決める非常に大事な意思決定を行うことになり,これはちょっと現実的ではない.いったん専門を選んだ後の,専門間の流動性を担保する仕組みを用意する必要がありそうだ.

あのー、まじで問いたいのだが、みんな若い人たちを念頭に置いてます)、高校とか大学とかで、生活や将来の仕事に直結しそうなことを教わるというのは、あまり望まないのだろうか?
たとえばビジネスマネジメント系、サービス系、エンジニアリング系、情報系、国際系、サイエンス系、デザイン系…くらいの大きな括り方ならどうだろうか。それでも「自分の可能性が限定されそう」で、いやだろうか?
世の中を渡ってゆくための「足場」や「力」や「武器」や「殻」がほしいとは思わないか?誰かの勝手で、自分をいいようにもみくちゃにされたくないとは思わないか?
潜在力だ何だと、誰かの恣意的でいい加減な視線で見られ、計られ、位置づけられるだけでなく、自分から自分はこうだ、この自分を見ろ、と押し出していきたいとは思わないか?
それを助けるために、高校や大学を変えてゆける余地と必要は確かにあると、思わないか?

*1:年齢構成の関係で,教職免許を持っているなかで実際に教職に就ける人数は非常に限られ,コネを持っているか,よほど学業成績が優秀でないと難しいらしい