雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

大学は学生が場数を踏めるような施策を打つべき

確かにコミュニケーション・スキルとか人間力という言葉が英語やパソコンのように強迫観念を駆り立てるコトバとして流行るのは如何なものか、という気はする。けれども大学1年の頃から個人でコンサルティングや受託調査をしていた僕としては「会社の役員をはじめとするコア社員と互角に仕事の話ができる能力」はないものねだりではなく、場数を踏む機会さえあれば充分に習得可能ではないかと考える。
僕の場合は中学・高校時代に新聞部の運営で先輩や生徒会と対立したり、先生による検閲を跳ね返したり、印刷所に入り浸って世間話をしたり、他校との交流会を企画・運営したり、そこで培った人脈でNHKの討論番組に出たりする過程で場数を踏んだ。
思うに高校レベルで学生運動への対策などもあって色々と規則が厳しくなって以降、学校の枠を超えたコミュニティは減らされたまま、ゆとり教育でカリキュラムがスカスカとなり学力崩壊が進む中で、従前のマスプロ教育の形態を変えなかった大学では低レベルの授業も少なくない。
講義形式の授業の何割かはe-Learningに置き換えるなどして少人数授業を増やし、学生にもっと調べ、考え、議論する場数を踏ませるべきではないか。基礎学力がなければ論理的思考力など育ちようがないので、初等・中等教育の見直しとセットでなければ難しいのだが。
本田さんのいう通り「人間力」というような曖昧なものを強調しすぎることは確かに問題だけれども、そういったスキルが産業界から要請されているのだから、もっと明確な教育学上の用語を定義するなりして議論を整理し、どうやったらそういったスキルを在学中に身につけさせ得るか、大学もちゃんと考える必要があるのではないか。

1[学力だけに注目していていいのか]→2[対人能力(≒「人間力」)も重要になってきている]→3[対人能力は実は専門的な教育を通じて培われる可能性が高い]+4[あまりに「人間力」というような曖昧なものを強調しすぎることは問題だ]

日経BP社の定義する「コミュニケーション能力」が何を意味しているのかが不明なのですが、要は会社の役員をはじめとするコア社員と互角に仕事の話ができる能力という定義なのでしょうか? そのような「ないものねだり」をしても詮無きことでは。