雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

機会を与えてくれない大企業にジタバタ踏み留まる価値

id:yukihondaさんのところやid:romuyaさんのところで企業の採用行動のあり方について客観的な職業能力でいくべきだとか、いや組織に順応できるかの主観的判断だという議論が展開されているけれども、最近になって実は採用基準なんて本質的には重要じゃないんじゃん、と考えるようになった。
理由は2つあって、ひとつは新卒労働市場需給ギャップが大きい以上、いくら面接を受けても落ちるヒトは落ちるし、落ちたら疎外感や割り切れなさを感じることに変わりないだろうし、受かったひとについても企業側に彼らの職業能力を認めて活かせるだけの器がなければ、優秀であればあるほど入社してから「自分の能力を活かせていないのではないか」「給料分も働いていないのではないか」「こんなところで足踏みしていることが人生の中で正しい選択なのか」といった焦燥感に駆られることもあろうということだ。
引き続き、ゲマインシャフト的な組織であれば「順応できるか」という主観的基準で白紙に近い新卒を採ろうとするであろうし、ゲゼルシャフト的な組織であれば客観的な職能基準での中途・通年採用を増やしていくだろう。それは企業にとっても社員にとっても悪い話ではない。採用はフェアであることよりも、採った企業と採られた個人ともハッピーであることの方が重要だ。
企業は潜在的求職者に対してフェアであるべく、客観的な職業能力でひとを採るべきだし、採られたヒトが最初から職業能力を活かせるよう、すべからくゲゼルシャフト的な組織であるべきだという論理は転倒している。企業が事業継続のために採用を行うのであって、採用を行うために企業がある訳ではないからだ。そして世の中にはゲマインシャフト的な組織であることの強みを活かした企業もあれば、ゲゼルシャフト的な組織であることの強みを活かしている企業もある。日本の伝統的な大企業は、往々にしてゲマインシャフト的な組織風土が強みであったりする。

少し気にかかっているのは、少子化による学生獲得競争の激化や、ITをはじめとした新産業でこういう人材が求められているのではないかという予測が先行して、1990年代から高等教育の特に新設学部を中心として個性を伸ばす方向に向かい、企業の採用担当も優秀な若手が惹きつけられそうな美辞麗句で「欲しい人材像」を語る一方で、大企業のガバナンスや文化なんてそうそう簡単には変わらないし、経済の成熟によって昔のようにポストが増える訳でもなく、却って能力を発揮できる機会を提供し難くなっているという構造的な問題も加わって、優秀な新卒者が就職後に直面する理想と現実とのミスマッチは、むしろ拡大していることである。新卒3年以内の離職率の高さを指して、最近の若者には堪え性がないとか、頭でっかちで結論を急ぎすぎると批判するのは、いささか筋違いという気もする。

真面目で優秀なヒトほど、自分の境遇を自分の能力や振る舞いのせいだと思い詰めてしまいがちだけれども、現実にはゲマインシャフト的な組織だと、どれほど優秀で成果を上げようとも上が糞詰まっているというだけで機会を与えられないことがあるし、ゲゼルシャフト的な組織では組織変更や予算の案配で、たまたま自分のポストが消滅したというだけの理由で、いくら真面目に働いて期待以上のパフォーマンスを上げていても、突然クビを宣告されることがある。
全ての気に入らないコトを自分ではなく周囲の責任にしてしまう奴は学習できないけれども、逆に置かれている境遇の全てを自分の責任に還元しようとしても、却って煮詰まって誤った結論を導いてしまうかも知れない。組織とは個人に対して理不尽なときは理不尽なものだし、それはそれで別の次元の合理性とかマクロ環境に起因しているという視点と分析能力を持つことも大切だ。
優秀であれば大企業に就職するよりも、自分で起業したりベンチャー企業に入社した方が、実際の経済社会と接し、自分が仕事を通じて会社に貢献できているという実感を持てる可能性が高い。新入りだというだけでなかなか機会を与えられなかったり、或いは機会を与えられたところで人員計画や予算獲得、異なる利害関係を持った部署間の調整といった社内政治に時間を割いていると、自分が価値を生んでいるんだか、仕事してるフリをしてるのだか、だんだん分からなくなってくる。大企業で得られるフィードバックというのは現実のビジネスではなく、企業統治のための仮想現実に過ぎず、その枠組みの中で最適化を頑張ることは、結局のところ組織特殊的な技能しか蓄積できないという気もしてくる。
では大企業に留まる価値はないのだろうか。僕は仮に大企業にいて自己実現の機会を与えられない場合でも、何かを得られることはある、その気になれば起業やベンチャーで成功し得る優秀なひとほど、理不尽な大企業に踏み止まって学んでおくべきことはあると考える。
ひとつは大企業の内側にいると気づかないけれども、やっぱり情報は大企業に集まっていることが多く、しかも闇雲に走っているよりは立ち止まってキョロキョロしていた方が視野は拡がろうということだ。先の長い職業人生を生き残るための経験を積むには、立ち止まって視野を広げる期間と、向こう傷を恐れずに走って経験を積む期間とどちらも必要で、けれども往々にしてベンチャー企業には、社員をキョロキョロさせておく余裕なんかない。そして同じ立ち止まるなら、まだ頭が柔らかい上に、背伸びをしたところで社会的に足枷をはめられがちな若いうちの方がいい。
そしてもうひとつ、いずれベンチャー企業で働く場合も、大企業での不毛な政治力学とか、下らないサラリーマン根性とか、冗長かつ愚かな意志決定過程とか、そういう理不尽な部分ほど内側から眺めて理解しておいた方がいいということだ。
いまの日本経済の構造では、ベンチャー企業も大概の場合は成長するためには大企業と付き合う必要が出てくる。そして、MBAの教科書に出てくるような合理的意志決定については、いくらでも本で学ぶことも想像を働かせることができるけれども、考えれば考えるほど理不尽な人間や組織の愚かさほど百聞は一見に如かず、貴重な経験となり得る。
例えば米国が真珠湾攻撃受けて日本と戦争するロジックなら中学生でも簡単に理解できるけれども、事前にシミュレーションで米国と戦争すれば確実に負けるという結果が出ているのに、それでも真珠湾攻撃を止められなかった成り行きというのは、もう少し難しい応用問題であって、座学よりも組織の愚かな意志決定の過程を間近で目撃し、その群衆心理に気づいたところでどうにもできない自分の無力さやもどかしさを噛み締めるのが、残念ながら最も手っ取り早いのではないか。そこで群衆に染まらず、踏みとどまって考え続けるには、かなりの忍耐と論理的思考力を必要とするし、本当に賢くて機知と勇気のあるひとなら、群衆たちのゲームに加わって流れを変えるのだろうけれども。
僕がまだベンチャー企業にいた時分、独占企業の心ない担当者によって、うまくいっていた商売を赤子の手を捻るように潰される様を間近で目撃する機会が何度かあった。理不尽でアンフェアな目に遭ったとき、大企業よりもベンチャー企業にいた方が、下積みをすっ飛ばせるし、権限や責任を与えられるし、身になる経験を積めるといっても、いくら組織になじめない自分のような人間であっても、数年くらいは大企業に身を置いてみて、あの群集心理や無邪気な凶暴さを理解できる程度に観察すべきではないか。そうした方が、いずれまた自分で仕事するときも、資金・経営資源・人材いずれの面でも勝る大企業と、組んだり競争したり潰されないための知恵を学べるかも知れない、という風なことを考えた。
規模的な成長が続き、財務的に余裕があれば、日本的ゲマインシャフト的な会社であっても、努力が機会で報いられる可能性が高いけれども、業績が傾いていたり頭打ちで、或いは財務的に逼迫している会社では、いくら頑張っても境遇は悪くなる一方で一向にチャンスを与えられない、ということはありがちだ。
そこでいつでも機会を求めて新天地にいくことのできる優秀なひとにほど、もう一度立ち止まって考えて欲しいことがある。あなたは、そこで人間や組織の愚かさについて、ちゃんと見通しただろうか。あなたがそこを離れ、あなたの能力を認めて機会を与えてくれるベンチャー企業に転職できたとしても、この種の人々とは大切な大口顧客として、提携先として、或いは手強い競合他社として、付き合い続けなければならない可能性が高い。そして往々にして、この手の人々の経済合理的とは限らない行動様式というのは、外側からよりも内側から眺めた方が理解しやすい気がする。
もちろん無理をして群衆に染まって死んだ魚の眼のようになってしまうくらいなら、とっとと機会を求めて飛び出した方がいいけれども、焦燥に駆られて生き急ぐ必要はない気がするし、あまり自分を責めずに状況を俯瞰する視点も持てれば、それに超したことはない。僕のようにゲゼルシャフト的な組織とも折り合いをつけるために苦労している奴がそんなことをいっても、全く説得力がないのだけれども。