恢復すべきレリバンスの在処
本田由紀さんが,これからはレリバンスという概念が大切になるだろうという指摘をしている.『高卒労働市場の変貌と高校進路指導・就職斡旋における構造と認識の不一致―高卒就職を切り拓く』とか,『希望をつむぐ学力 (未来への学力と日本の教育)』といった本が,既にこの概念に着目しているという.いずれもまだ読んでいないけれども,意味を求めて中学で留年し,高校を中退し,大学そっちのけで仕事をした*1僕にとっては,とても耳当たりが良いコトバだ.
獲得目標の達成を通じて、何らかの意味・関連性・興味が多くの学習者に実感されるようなものとしてのレリバンスをいかに回復するかが課題なのである。
けれども,そもそも日本人がよく働き,勉強する根拠というのは,戦前戦後ともに甚だあやふやであったのではないか.悩んでいろいろと空回りしていた中学時代,鴎外の『青年 (岩波文庫 緑 5-4)』を読んでいたく心を動かされた一節がある.
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
然るに生活への期待を先送りする精神構造というのは明治以降の近代化や,高度成長に一役買ったけれども,それは経済成長によって持続的に新しい役割が生まれ,多くの人々が努力に対する見返りとして期待を持てたから機能したガバナンスであって,期待=経済成長を維持できなくなった途端に,マッタリと失速することを運命づけられていたのではないだろうか.
これから人口が減り,国民負担率は上がり,階層化が進むであろうという漠とした不安は,実体的な経済的基礎条件以上に,人々の行動に影響を与えるのではないか.富裕層は利益確定のための新自由主義を志向し,中流意識をなくした「待たされ組」はマッタリと放って置かれる.
経済が成熟する過程で,どのようにレリバンスを恢復していけるのか.努力し,はい上がろうとするのは,頑張れば報われるという動機付けと,そう動機付けされた人々に機会を与える仕組みとを両輪にしている.
『虚妄の成果主義』のように経営者に「企業なんだから業容拡大を目指せ,従業員を仕事で報いろ」と発破をかけるのはミクロ的に正しいけれども,縮む市場の中で,多くの経営者は手仕舞いや,緩やかな現状維持を考えざるを得ないのではないか.それとも経済的成功や会社以外に,地域や多様な人間関係の中で,新たな未来志向の意味体系を再構築できるのだろうか.
どう成熟するかというのは,社会にとっても,会社にとっても,人生にとっても,なかなか難しい課題である気がする.
*1:そして大学でも留年したけれども,かみさんの助力で何とか卒業はした