雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

オウム事件の回想

id:matsunagaさんを巡る一連の騒動で,みんなオウム事件の時代の自分にフラッシュバックしているので,その流れに乗ってみる.僕がオウム事件を知ったのは電器屋のテレビでだった.遠距離恋愛だった彼女が大学に受かって上京し,こっちは浪人が決まっているという情けないシチュエーションで,彼女の新生活のための家電製品選びを手伝っていたのだ.あぁ近くに住んだ瞬間,手が届かないところにいくなんて!と思ったかどうかは覚えてないけれども,とりあえず一緒に電器屋に行ってテレビデオを買おうかどうしようかとか悩んでるところに,ニュース速報やら,地下鉄の駅から担架で運ばれる人々の映像とかが出てきたところを鮮明に覚えている.
事件の段階でオウムそのものはそれほど身近ではなく,せいぜい直接の面識はない中学・高校の先輩が,上九一色村の印刷工場で事故死していたりとか,あとは確か廃刊した号のマルコポーロだったかオウム真理教サリンをつくってるんじゃないかとというルポが載っていたので,強制捜査のときはあまり驚かなかった.
直接,オウム信者の方と話す機会を得たのはそれから数年後,まだ富久町にあった頃のロフトプラスワンでだった.ステージでかなり率直なトークライブを展開されていたTさんと,たまたま朝まで飲んだ.Tさんは事件時にオウム防衛庁の重鎮で,場合によってはサリンを撒いていたかも知れないという役回りだったが,話すと非常に気さくで,専門用語を使わずに,教義についてとても丁寧に語ってくれた.麻原氏に引き続き帰依しているけれども教団からは脱会したという彼は,職場で出自がばれる度に去ることを余儀なくされ,各地を転々と土方などをやっていた.そうやってオウム信者を疎外すればするほど彼らは生活のために団結せざるを得ないのではないかという懸念を持っていたところ,数年後に風の噂で彼が教団に戻ったと聞いたが定かではない.
彼の話は分かりやすかったし,入信の経験についても自身を相対化した話され方をしていて,どんな組織でも上に立つ方はちゃんとしてるんだな,という印象を持った.ただ「麻原氏からサリンを撒けといわれたら撒きますか」という質問に,座った目で「撒きます」といわれたことに,彼我の住む世界の違いを実感させられた.けれども「結局テロリストだろ」的な目でみられかねないところで,偏見をおそれず率直に,外に伝わる言葉で整然と話されていたので,度量の広さに驚き,とても好感を持ったことを覚えている.

結論めいたことは何も書けないのだけれども,そのとき彼と話していて僕が感じたのは,どこに所属して何を信じるかというのは,結局のところ縁起のようなものではないかということだ.彼がたまたま心の支えを必要としていたときに,彼を受け入れて居場所をつくったのは,たまたまオウムだった.そういうことであって,そこには理由も何も必要なく,ただ人生とか歴史というものなのであろう.そして周囲は事件以降,彼が他の在り方を探る可能性さえ閉ざしてしまった.
家庭にせよ,職場にせよ,多かれ少なかれ組織の論理というのは仮想現実ではないか.世の中というのは複雑すぎて,どうにか縮減しないと捉えようがないのである.誰もが自分の周囲で起こっている出来事の脈絡なさや理不尽さを縮減できる物語―世界観を求めているし,組織は構成員や周囲を動員する上で都合のよい世界観―記号体系や人間関係,価値観など―を押しつけようとする.これは宗教団体に限ったことではなく,会社だって地域社会だって似たようなものだ.そして個人も,人間関係や経済的な庇護を必要としていて,そのためにどこかに属する.どこかに属する前に,それがどういう世界観を押しつけられるかを充分に知ることは難しい.そもそもコミットメントというのは,そういうものではないだろうか.
組織の犯罪に荷担したひとや,そういった犯罪を起こした組織を支えたひとを,それが組織の問題であって個人の問題ではないという風に免責すべきではない.けれども,彼らが何か特別な人格なのだという偏見もまた,却って本質を見誤らせてしまう.
誰もが自分に都合のよい世界観をつくり,所属する組織に都合のよい世界観を押しつけられ,そしてどんな人間だって組織だって,時に非合理的なことや反社会的なことをしてしまうのである.そしてそういった非日常的な出来事も,因果を丹念に追っかけていくと日常性の延長線上に横たわっていたりするのだ.たまたま結果として反社会的行為に結びついていなかったり,裁かれていないだけの,危険な思考停止や権威主義やご都合主義は,組織の官僚主義やマスコミの扇動的な報道のなかにも日常的に跋扈している.
そういう不確かな世界の中で,けれどもどこか正気でいようとする,自分はそういうヒトでありたいし,誰がどこに所属していようが,正気でいようとし,けれども自分が完全に正気であることなんてないんだと自覚しているひととならば,自分は話せそうな気がする.