雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

宗教の存在理由と信仰の効用は分けて論ずべき

宗教は昔から統治の道具であった.政治権力が宗教を利用することもあれば,教団が権力を欲することもある.今日の成熟した宗教が,日常を淡々と守らせるように機能していることは確かだけれども,そのために宗教があるかというと微妙だ.
僕はむしろ宗教というのは,理不尽な世の中を分かった気になりたいとか,何かを信じたいといった欲望に深く根ざしていている気がする.科学も同様の欲望に根ざしているし,科学や近代国家,資本主義よりも宗教が先にあり,特に基督教がそれらの成立に深く関わっていることは周知の通りである.
日本も明治維新の折に近代法を持ち込んだり近代軍隊をつくる課程で,基督教に於ける神の機能に代わるものとして天皇制を再定義している.創作もかなり含まれるにせよ『象徴の設計 (文春文庫)』なんかを読むとその辺が生々しく描かれていて面白い.
いまでは葬式仏教という言葉さえ死語になりつつある仏教でさえ昔は僧兵で武装していたし,基督教にも十字軍をはじめとしていろいろな歴史があるし,イスラム教では今も聖戦を闘っている人々がいるし,成熟した宗教の多くも血腥い歴史を持っていることは疑いのない事実で,やはり宗教の本質は社会との融和や生活実践とは別の次元で人間の欲望や社会の構造に深く根ざしていて,たまたま平時の社会と折り合っている成熟した宗教が,社会の安定に資する活動もしているだけではないか.組織としての宗教は,経済活動を行う在家信者と宗教活動に専従する出家信者とで前者の割合が充分に多くなければ,持続性を持たない.そして政治権力と折り合い,充分な数の在家信者を抱えるためには,まさに俗っぽい日常を淡々と守ることの正統性を提供することも重要な機能となる.
宗教というのは,物心ついた時から入っていれば自分の人格形成や倫理観に深く染みついて違和感のないのであろうが,そうでない場合に何かに入信するというのは,かなり不思議というか難しいことである気がする.『余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)』とか読んだけれども,結局よく分からなかった.
僕は残念ながら特定の宗教を信じたり,教団に属しているということはない.けれども何となく,神のような何かはあってもおかしくない気がする.ただ仮に神のような何かがあったとして,僕の血液中にいる白血球が僕の意識を知覚することがないように,僕の意識は神について知覚できないだろう.体や脳の様々な相互作用が自分の意識をどう織り成しているかさえ科学はまだ明らかにしていない.ましてや自分を含むもっと広い世界の相互作用が,高次の意識のような何かを形成しているか否かなんてことは,分かりようがない.あってもおかしくないし,そういう記号体系をつくることは難しくないけれども,反証可能性がない段階では科学ではないよね.仮にそういった高次の意識のようなものがあったとして,それは恐らく擬人化できるようなものではなく,どんなことを気にしているかは僕の想像の埒外なのだろう.
僕に分かるのは,神の名を騙るひとや,神の権威や神への関心を利用して動員しようとする人々の極めて人間くさい営為があり,それで救われるひとがいるなら社会的意義はあるけれども,これから自分が入っていくにはしんどいなということだ.たまたま自分は宗教に頼らなくても何となく世間と折り合いをつけているし,いまのところ緩やかな紐帯はあるし,漠とした信仰や,知的好奇心を満足させる方法もある.爛熟した消費社会の中で,時に自分を見失ったり酒や趣味に淫することもあるし,持て余しがちな自分の身体や精神との関係性について,宗教は時にbest practiceを提供してくれるんだろうけれども,頼りたくないというか,ぼくの人生ではたまたま縁がなかったのかなと考えている.人生長いし,この先どうなるかなんか分からないけどね.

長持ちしてる宗教ほど、世界平和だどうだこうだ言う前に、上の様な感じで俗っぽいものだし、世界平和より信者の俗っぽい日常こそ淡々と守らせようとする。信仰は修行の中にのみあるのではなく、日々の生活実践の場にこそある。