『若者殺しの時代 (講談社現代新書)』とバブル世代

- 作者: 堀井憲一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/04/19
- メディア: 新書
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80年代的な言説は,中学生のときに追体験した.『パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か (カッパ・サイエンス)』から栗本真一郎にはまって,ニューアカ系の著作は浅田彰とか色々読んだ.何でこんなこと思い出したんだろう.そうか『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』なんてのがあったんだな.ホリケンはスキゾ,小飼弾さんはパラノとか,そういうことじゃなくって.
『若者殺しの時代 (講談社現代新書)』の話に戻すと,70年代後半から最近にかけての時代の空気の変遷を追体験するにはいい本だ.確信犯であるにせよ,まず文体が80年代的な軽さを踏襲している.論じている内容も面白いけど実にどうでもいい.そして最後に「逃げろ」という.
逃げずにどうするかって難しい.別にホリケンにいわれなくたって,いま時代の転換点にあること,団塊ジュニア世代は古いシステムの最後の世代となるか,新しいシステムの最初の世代となるか,いまはとても微妙な時期だ.できれば30代のうちに修羅場を潜りたい.ネットバブルにはタッチの差で乗り遅れてしまった.けれどもあれは空虚な熱狂ではあったけれど闘争でも革命でもなかった.
ビットバレーとか騒がれていた頃,ガーデンプレイスの真横に寝泊まりして,恵比寿のお好み焼き屋さんで経済が破綻したらどうしよう,俺たち失うものが少ないからどうにかなるよね,なんて話をした.そいつらは会社を売って大金持ちになったり,また会社をつくって上場間近のところまで来ていたりする.遠からず時代が変わるな,大変なこともあるだろうなという意識はあの頃からあった.
IT業界はその後も気の抜けたコーラのように香ばしい発展を続け,僕は妻子と住宅ローンを抱えて今じゃ恐慌がきたらちょっと困るなと思いながら,ネットでのどうでもいいおしゃべりに現を抜かす.逃げるでも闘うでもなく,どう世の中や未来と折り合いをつけていくか悩みながら.バブル世代が若者気分も抜けずに若者殺しに走るこの時代,去勢され収奪の対象となるよりか,割に合わないとおもいつつも奴らより先に大人になってしまった方が得という気がする.
実に美しく空しい一節ではないか。手を動かさなかったものにふさわしい、キリギリスの墓碑銘である。恋愛も携帯はおろか、人が作った被造物がおよそ何も生み出さないのは当たり前ではないか。何かを生み出すのは、あなたやわたし、人である。
もっとも生み出す能力が高い時期に、消費にいそしんでいた彼らには哀れみも感じなくはない。そう。彼らには哀れみがふさわしい。彼らは哀れむ対象なのだ。ありもしない提言に耳を傾ける対象ではなくて。