雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

凡人が万馬券ばかり買って競馬場を去る社会

例によってモヤモヤした気持ちでエントリを書いていたら弾さんから本質を突いたTBがきた.専門分化による二極化という分析には賛成だけど,それほど専門性の高くない若年層に於けるニートやフリーター増加ついては,まだやることがあるんじゃないかな.
確かに専門性の細分化によって再チャレンジのハードルが高くなったことはホワイトカラー上層の過労や需給ミスマッチの大きな原因であろうし,持とうとするもの・持とうとしないものによる格差と割り切れば,格差社会も悪いとはいい切れないのかも知れない.
けれども実際のところ,持とうとするか否か自体が経路依存的であり,これを先験的に扱うことに危険を感じる.つまり,多くのヒトは最初から持とうとしない者ではなかったのかも知れない.推察するに日本がこれまで豊かであったのは,身の丈に合わせた「持とうとする」欲望を再帰的に喚起する仕掛けが働いていたからではないか.例えば「いつかはクラウン」みたいに.
そこそこの確率で勝てる勝負だから,多くのヒトが勝負に参加し続ける.負ける確率が高い勝負を何度かやって負けがこんだら,もう持とうとしなくとも不思議ではない.多くのヒトがいつから高望みになったか知る由もないが,『若者殺しの時代 (講談社現代新書)』なんか読んでいると,それは1980年代ではないかという気がする.例えばトレンディードラマに出てくる風俗と,メジャーな視聴者であろう下流社会な人々の風俗との乖離とか.ドラマがみんな渡る世間は鬼ばかり」みたいだったら,みんなもっと地味に真面目に貯金して勤勉に働いたんじゃないか.けれどもドラマが渡鬼ばかりじゃ消費は喚起されず,儲からないのである.
最近ちょっと気になっているのは,景気回復や団塊世代引退の影響で大企業が新卒採用を増やし,そこに学生が殺到しているという話.採用を増やしたといっても知れていて,倍率は数千倍から数万倍に達する.一方で地場の中小企業は,これまで呼んでもらっていた大学の企業説明会にも呼ばれなくなったという.百万馬券万馬券になったようなものなのに,そこに殺到するのである.そして大企業ばかり何十社か受けて落ちて失望し,「ああもういいや就職なんかしない」と感じてフリーターやニートになってしまったのを「持とうとしない者」と切り捨ててしまっていいのだろうか.もうちょっと現実的な張り方を教えることはできないのだろうか.
わたしが学生だった時分,神奈川大学経済学部の中ではそこそこ就職に強い金融論のゼミにいたとはいえ,ちょうどネットバブル最盛期で,結構多くの奴がゼミの選抜で「トレーダーになりたい」とか「インキュベータになりたい」とかいってるのに驚いた.聞いていて,ちゃんとしたトレーダーになれるほど数学ができていたら君はそこにはいないだろう,と突っ込みたくなった僕は嫌な奴かも知れない.そんなに深く考えてはいないのだろうし,学生なんていつの時代もそんなものかも知れない.
ただ手近なロールモデルがあったり,余計な世話を焼いて説教する親父でもいたら,もうちょっと地に足のついた夢をみたのではないか.団塊世代の親あたりから,子供の自己選択を尊重するようになったのか,説教したくなるような鬱憤がなくなったのか,説教できるだけの権威を失ったのか,そのどれかなのだろう.そして叱られずに摩擦は少なく,一方で先の見えない自己実現を渇望し,何となく世間と噛み合わずに生きていると『他人を見下す若者たち (講談社現代新書)』が指摘するような「仮想的有能感」に縋らざるを得ないのだろうか.
僕は進行しているかにみえる若年層の二極化について,リスク・ベネフィットを達観した上での持とうとするもの,持とうとしないものとの格差というよりは「メディアに喚起された生活への過剰期待−現実とのギャップ―埋め合わせるための仮想的有能感」によるミスマッチの方が割合として高い気がする.このミスマッチを解消する上で必要なのは,万馬券ばかり買って挫折して抜け殻になる前に,もうちょっと手堅い張り方を教える,或いは気付いたところでやり直せるようにすることではないか.そのために,政策にできることは少なくない.

転職の自由が大きくなればなるほど、転職リスクは大きくなるのだから。現代の先進国のおける職種は、それが高収入であればあるほど専門性が要求される。正規雇用が減る一方で過労死が後をたたない背景が、これだ。職種が増えれば増えるほど再チャレンジのハードルが高くなる。このジレンマを解消する方法はあるのだろうか?
(略)
結局のところ、我々が受け入れるのは、「納得ベースの格差社会」なのではないだろうか。持てるもの、持たざるもの、ではなく、持とうとするもの、持とうとしないものによる格差なら、それは悪いとは言い切れない。