雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

競争を前提に「弱者」を語るネオリベ*1に生活はあるか

僕はいま出張中で「ワーキング・プア」という番組をみていないので,ひょっとしたら外しているかも知れない.しかし下の文章を読んだときは,Train-Trainの「弱い者達が夕暮れ、さらに弱いものを叩く」というフレーズが脳裏でヘビーループしてしまった.たまたま所得が低い奴を弱者と決めつけるのは噴飯ものだし,だいたい他人の人生を勝手に「戦い」にしないでおくれよそこのナイーヴな受験秀才クン.

複雑な現実社会における戦いというのは、何百万種類ものカードがあるカードゲームみたいなもので、才能や環境というのは、その手持ちのカードだ。(略)ほとんどの弱者は、自分の手持ちのカードの悪さを嘆くばかりで、アンテナを張ろうともしないし、より強力なカードの組み合わせを工夫したりもしない。(略)少々手札が悪いくらいで、弱者を救済しろ云々というヤツには、それこそ「神経を疑う」という言葉を、そのまま返してやるぜ。

10代後半から文房具屋の棚卸しに始まってファーストフード,討論番組のディベータ,研究所のアシスタント,アキバのジャンク屋DOS/Vショップの店番,ライター,個人営業のコンサルタント・SEとか色んな仕事を渡り歩いた.単位時間あたりで最も大変だったのはファーストフードで,時給が最も安かったのもファーストフードだった.だから仕事の大変さと給料は必ずしも一致しないことを知っている.
そして給与水準以上に重要なのは,時間の自由があるか,視野は広がるか,自分の頭で考える精神的余裕があるか,そこでの経験が活かせるか・他から評価されるかといったことだ.NEETはともかくワーキング・プアを抜け出せない人々は,「弱者」論の説く本人の意志や意欲といった問題より,余裕のない生活,広がらない視野,蓄積しないスキルといった澱の中でそもそも外側に別の世界があるという気付かないうちに歳をとってしまうのではないか.職場の中の競争はあっても,立ち位置を変えるための競争なんかそもそも見えていないのだ.
結果的にそういった仕事に就かざるを得ないひとがいる,これは現実である.たまたまAさんでなくBさんが分の悪い仕事についたのは,ミクロ的にみればBさんが競争に負けた弱者なのかも知れないけれども,マクロ的にはAさんであれBさんであれ誰かしら分の悪い仕事を引き受けるのである.結果的に分の悪い仕事につくのがBさんだったとしても誰かしらそういった仕事に就くのであれば政策的な手当が必要となる.生活できない賃金で雇う方に問題があるのだから最低賃金を上げればいいとか,低所得者層による労働の便益を受けている企業に課税すればいいという考え方もあるが,低賃金労働者を減らそうとして失業者を増やしては目も当てられない.
ところでモヒカンネオリベのしきりに強調する競争とは何だろうか.受験とか,就職活動とか,テレビ出演とか,そこそこ倍率の高い世界には目に見える選抜という競争がある.けれども労働市場に於ける競争の多くは,キャリア形成プロセスにしても採用プロセスにしても偶有的だ.結果的に生涯年収とか様々な指標を使って勝ち負けを定義することもできるだろうけれども,それは結果論に過ぎない.
そして仕事を得,職歴を重ねていく過程では,えてして他人を貶し蹴落とすことよりも,他人から必要とされ,自分の居場所を確保し,隣人とうまくやっていくことが求められる.だから競争というメタファーは多くの場合あまり適切ではないのではないか.仕事している時間や仕事を通じての人間関係は人生を通じてかなりの割合を占めるし,誰もが所得を極大化すべく競争しているという発想には無理があって,みんな責任感とか自己実現とか,他にやることを思いつかないとか,各の事情で生業に就いているのだろう.
だいたい競争というのはルールを決めている奴がいて,群衆を操作するためにやるのだ.一人ひとりを個別に動機づけるのは面倒だから,手っ取り早く動かすために競わせるのである.本当に創造的な仕事には競争がないのではないか.それは世の中から必要とされる仕事を自分でみつけるか,そういった仕事をみつけたひとから必要とされることである.仕事の数よりも引き受けたがるひとが多いからこそ,その仕事を誰が引き受けるかを巡って競争が生じるのである.誰かを指名せずに競争させるということは,その仕事を誰が引き受けても構わない,所詮はコモディティですよということである.
ちょっと前に出たマーケティング書に『ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する (Harvard business school press)』があるが,ここでの手法や概念は企業だけでなく個人にも使える.要は血みどろの競争(レッドオーシャン)に塗れて経営資源を磨り減らすのではなく,顧客価値に基づいて競争の軸をずらして競合が参入し難いカタチでセグメントを再定義(ブルーオーシャン)した方が儲かりますよ,ということだ.キャリア形成についても競争に勝ち抜いたと自慢するのは程々にした方が良い.「そうか君は苦労して,ここまで頑張って,今日の今日まで操られていたのね」ということだ.鴎外の『青年』とかを読むと,それはそれで日本の優等生たちの知的伝統かも知れない.
人生を競争と思って勝ち抜いても勝ち抜いても,その先には生活はないのである.

一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。