雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

小学校での英語教育より画一的な指導要領が問題

いささか時期を外してしまったのだが忘れないうちに書いておく.安倍内閣になって伊吹文相が小学校での英語教育に批判的になったことに対し,わたしの周囲では批判的な声が強かった.けれども私が思うのは,英語教育でも何でもいいけれども,役所が勝手に画一的に何かを教えると決めるやり方はよくないということだ.
日本全国津々浦々の小学校で充実した英語教育ができるとは信じられない.耳が発育する何歳かまでに英語を聞かせないと厳密な聞き取りができないという学術的な根拠があったとして,日本中でネイティブの発音による授業ができるロジが整っているとは信じがたい.だから小学校で英語を教えないことが,それほど問題とは思えない.一方で,数%でいいから質の高い英語教育を売りにした小学校があってもいい気がする.
外資系で出世した人々の多くは自分が英語が出来たせいで栄達したという意識があるし,日本人の中では英語に強いといったって英語で仕事上の苦労はしている訳で,やはり語学教育は早いうちが良いという意見が支配的だ.けれども彼らが高給を取れるのは,英語をできるひとだけでなく,できないひともいるからだ.みんな英語ができたら付加価値にならないのである.経済のグローバル化が進んでいるとはいえ,雇用の過半を占めるサービス産業はドメスティックであって,人口の8割から9割は今なお仕事で英語とは無縁の日々を送るのではないか.
英語ができてナンボの外資系にあって,わたしのように英語の成績を理由に中学で留年,高校を中退,大学でも留年というのは珍しい経歴だろう.けれども大学に入った年には仕事で米国に出張している.今でも英語は大の苦手だが,多くの人よりは仕事で止むを得ず英語を使っている.英語ができるから英語を使う仕事に就くのではなく,仕事で用があるから英語も使うのである.別に国語力に限らず専門性こそが主であり語学力は従である.
これまでの日本の工業社会に於いては,英語でのコミュニケーション能力は特に必要とされず,向こうの技術を持ってくるときに,向こうの文献を読んで分かった振りをする必要があったから,論理的思考力のついてきた中学から英語を教えるので十分だった.経済のグローバル化で文献の読解だけでなく,会話も含めて英語を必要とする人が増えたというのはあるのかも知れない.けれども割合としては知れているし,上澄み数%を育てるために日本中で小学校から英語を教える必要はない.むしろ誤った発音が刷り込まれたり,下手な授業で苦手意識を植え付けては,逆効果ではないか.
工場のラインでもあるまいし,誰もが決まった能力を身に着けているべきという議論は不毛で,それぞれ自分の専門性を発見し,それを伸ばしていける仕掛けをつくれればいいのである.ビデオからDVDへの移行,ネットやポッドキャストの普及によって生の英語は身近になった.興味を持って,自分から英語に飛び込んだひとが,世界に通用する能力を身につけ得る経路が確保されていればいい.英語に限らず,各々の得意分野にどっぷり浸り,世界水準を意識して切磋琢磨できる仕掛けをつくれればいい.
これから学ぶ子たちの将来に責任を持てるとも思えない年寄りの独断と偏見によって公教育が振り回されることこそ問題であって,その元凶を断つには教育分野での規制緩和と競争促進を通じた教育内容の多様化こそ重要ではないか.まずは小学校での英語教育ではなく,教育指導要領と教科書検定の廃止から始めてみては如何だろうか.教育の質が担保されないことによる学力低下を懸念するなら,卒業資格を大検のような学校ではなく第三者機関による試験を通じて与えればいい.