雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

逃げ出さないための希望

米国企業にいると自社に都合のいい政策提言を役所に取りあえず投げてみるというのは当たり前の仕事だし,逆に向こうから御用聞きにやってくるのが鬱陶しいくらいで,山口氏のエントリを読んで,そうか日本には商人の「分」なる美徳があったのかと新鮮だった.然るに商人が分を弁え,庶民も分を弁え,公僕も分を弁える予定調和的な世界というのは,言い換えれば美しい国の麗しき談合文化に他ならない.
希望の国のエクソダス (文春文庫)

企業には企業としてやるべきことがあり、やるべきでないことがある。問題意識は同意できる点も少なくないが、個人としてならともかく、企業経営者として語るなら、やはり「商人道」みたいなものからはずれないほうがいいと思う。

テレビの時代劇で水戸黄門暴れん坊将軍の活躍をみて溜飲を下すとか,大岡裁きに喝采している間に,御上は常日頃から民草のことに思いを致し,商人は利権獲得や賄賂の収受に余念がないといった刷り込みが進むのだろうか.GHQが進駐するなり忠臣蔵の上演を禁止したのは達見であったのかも知れない.
これも城山三郎とかを読んでの偏見だが,日本の財界活動というのは伝統的に分を弁え阿吽の呼吸で腹芸をしていたはずで,こうやって叩きようのある提言が平場に出てくるだけでも随分と庶民に近づいたものだし,基本的に歓迎すべき傾向という気がする.ひとことに財界といっても昔のように財閥や閨閥で絡めとれないほど多様化しつつあるし,経団連そのものがサロンというよりは平場に近づいているということか.働きかける対象も,政治権力が官邸に移って政策過程が政治主導になってから素人の思いつきで物事が転がり始め,以前より言ったもの勝ちという傾向が強まっているのかも知れない.細川連立政権での政治改革法成立から小泉改革に至る権力構造の変化は『首相支配-日本政治の変貌 (中公新書)』に詳しい.
首相支配-日本政治の変貌 (中公新書)
しかし『希望の国』とはよくいったものだ.審議諒承したのは経団連のお偉方であるにせよ,下書きしているのはわたしやBlogger諸氏と年端の変わらない事務方ではないか.それ故お偉方の目に適う提言といっても世代を超えた事実や,お偉方には気づかれないウィットが仕込まれているのではないか.
まずベタなところで事実として子供を産めないのは,大企業による搾取や格差社会のせいではなく希望を裏切られたからだ.数でみると日本では圧倒的に大企業よりも中小企業が多く,大企業から搾取されている中小企業は従業員から搾取していたし,年功序列・終身雇用といった慣行も限定的であったし,ワークライフバランスも今以上に悪かった.だから大企業が年功序列・終身雇用を抛擲したからといって,それ自体が出生率を大きく下げたとは思えない.
合計特殊出生率の推移をみると,戦後のベビーブームから70年代初頭まで2を超えた水準で推移していたのが,1973年ごろを境に長期的な下降トレンドとなっている.経済の安定によって下げ止まるも,1985年以降ふたたび大きな下降トレンドが続いている.最初の下落はオイルショックによる高度成長の終焉で,かつてのように日本が成長し続けるとは信じられなくなった.次のピークである1980年代中盤はバブル前夜,つくば万博が科学の未来を謳歌し,男女雇用機会均等法が成立し,トレンディドラマが定着した時期だ.
1985年 (新潮新書)
その後バブル景気で消費は爛熟したけれども,ISDNは空振りだったし,ロボットやバイオ農業や立体映像の時代は来なかったし,女性が本当の意味で平等に職場で報われることは依然として難しいし,トレンディドラマに登場する洗練された都会のライフスタイルは憧れと消費欲を惹起したけれども庶民の生活からは乖離する一方だった.
オイルショックが「未来が現在よりも良いという,ささやかな希望」を打ち砕いて出生率を引き下げたのだとすれば,1980年代中盤は「そもそも手の届かない希望」が人々を翻弄し,それが平凡な家庭を築き子供を育てるよりも輝かしい可能性にみえた時代だった.そういった消費文化を主導したのがテレビ局や出版界で,彼らをナショナルクライアントとして支えたのが経団連に名を連ねる大企業であったことは論を俟たない.だから確かに,政府なり財界が庶民を勤労なり繁殖なりに動員しようとするのであれば論点は「希望」で筋としては悪くないのではないか.
そして深読みすると「希望の国」はエクソダスの枕詞で,エクソダスとは脱走のことである.作品で希望を失った中学生たちは一斉に登校拒否して連帯する.フリーターは労働市場から疎外されているが,NEET労働市場から逃げ出している.多くのシングルやDINKSは子育てから逃げ出している.そして安く便利に使える勤勉な労働者がいなくなれば,市場が縮小すれば,グローバル企業は日本から逃げ出すのだろう.誰もが逃げ出さないために希望を必要としているというか,希望を見失って脱走しつつあるのではないか.商人の分,公僕の分,庶民の分いろいろあるだろうが,誰だって逃げ出す自由を持っている点に於いて平等だ.
その点に於いて『希望の国、日本』は,経済界から政府に対するロビー活動ではあるが,企業が日本から逃げ出さずに済む条件として読むべきではないか.政府にこの要望書を聞き入れる義理はないにせよ,企業だって日本に踏み止まる義理はないのである.無論,庶民だって労働や子育てに踏み止まる義理はないが,みんな逃げ出したら山河しか残らない.
誰だって踏み止まるための希望を探しているのだから,商人の分,庶民の分,公僕の分といって思考停止に陥ることの方が危うい.経営者だけでなく正社員もフリーターもNEETも,自分たちが踏み止まり得る希望を思い描き万機公論に決すべきではないか.フリーターやNEETから,言い分をカタチにする余裕や希望さえ失われていることが,問題の深刻さに拍車をかけているのだが.

確かに「希望の国」を、「日本経団連の希望を次々と、それも他者の財布でかなえてくれる国」という例の提言は、むしろ商人としてもあまりにバカ正直で、まともに商談する気が失せる代物ではあるが、彼らの立場から見れば「とりあえず言っておく」というのは間違ってはいない。ああいったロビー活動もまた「最小限の労力で、最大限の利潤を」という路線に沿ったものではある。
問題はむしろ、経営者サイドには日本経団連というロビー団体があっても、それに対抗するロビーがないことだろう。