雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

物書きへの途

今日はまったりと馬事公苑のツタヤで,『蜂起には至らず(新左翼死人列伝) (講談社文庫)』の樺美智子と高橋和巳を拾い読みし,石田衣良の『美丘』を読み,にわか雨の前に帰宅して昨日紀伊国屋で買った瀬戸内晴美の『蜜と毒 (講談社文庫)』と河内孝の『新聞社―破綻したビジネスモデル (新潮新書)』を読んだ.
ところでツタヤでみても文芸書の平積みというと横組みで本文が真赤なゴチック体とかありえない装丁の小説が増えていて,これが結構売れているらしいのだが,手にとっても読みにくいし文章も素人だし,なかなか読み続けられない.
ちょっと目を通した限りでは,学園モノの恋愛体験とかベタな不治の病ものが多くて,まあその世代がターゲットなのか.けど彼らケータイで無料で読めるものにカネ払うんだろうか,とか悩む.そもそも,ケータイで書いているらしく,日本語として僕が普段よむ活字とは違う文法になっている気がする.例えば1行の短さとか,改行の使い方とか,半角カナや顔文字の使い方とか.
しかし考えてみれば『魔法のiらんど』から本になる流れって新しいよね.まずネットで無料で読める膨大なCGMコンテンツがあって,流行ったものを後から活字にしている訳だ.こういうのが増えると編集者は不要になるのだろうか.作家なんて育てなくても,集合知の中で優れた作品が浮かび上がってくるんだろうか.
どうもそう思えない.やっぱり質を担保しようとすると,煮詰まった世界の内側での相互評価とか,経験を積みながらプロダクト・アウト型で言説を紡いでいく,発信する前から切磋琢磨する世界というのは,なくなりはしないだろう.文壇だの純文学だの,死語って気もするけど.
ただ,書籍の市場がそう拡大しないと仮定した場合に,プロの物書きが書く割合というのは減って,CGMコンテンツが伸してくるというのはあるかも知れない.プロのプロたる所以は,書き続けることだ.才能って枯渇することもあるし,すごく時間をかけて自分の経験を文章にすることはできても,一定水準以上の文章を書き続けるって別の大変さがある.
これは僕も連載を書くようになって知ったことだ.ネタは尽きることもあるし,いつも同じことばかり書き続ける訳にもいかない.そういった難しさをすっ飛ばして,生々しい現実をコトバに落としていくことの迫力というのは,それはそれであるのだろう.職業作家でなきゃ,自分が共有したい体験さえ共感できる読者と分かち合えれば幸せだし,職業作家でさえ,書けるような経験を書き尽して潰れていく例も少なからずある.
そういった生々しい経験を持つ多くの普通の人々には,これまで書く動機もそれが日の目を浴びるチャンスも限られていた訳だが,こうもブログっぽい世界からベストセラーがいっぱい出てくると,賞に応募するよりも最初からネットで公開してしまえ,という作家の登竜門が増えてくるかも知れない.或いは出版社に囲われるより,自分の読者を相手に,アドセンスアフェリエイトで稼ぐ直営小説家が増えて,活字化に当たっては印税率をオークションで決めるとか,そういうことだってあるかもね.

僕も本当に物書きになろうとするのなら,文壇バーで編集者相手に営業トークしてるよりは,こつこつとネット上で書き溜めることから始めた方がいいのかも知れない.ただ,CGMから出版へという流れが,新世代の作家の登竜門となるのか,それとも無数の一発屋から良質な作品を漉し取る仕掛けで終わるのか,まだ分らない.
伝統的な文壇での書くことが目的という表現技巧の競争から,無数の表現者が体験を共有してフラットな世界でアクセス数を競う別の軸に移ることは,宮台真司のいうところの「意味を追求する生き方」から「強度を追求する生き方」へに転換していく「まったり革命」と通じるところを感じる.
一方でそういった世界でのフィクションが戦前の文学に於ける結核のような不治の病でお涙頂戴系に流れているのは,音楽と同じように大衆芸術は古典的手法に基づいているということか.