雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

情報産業の常民文化

大学はあまり通っていなかったので心に残る講義などなかったが,心残りがあるとすれば網野善彦氏の授業を取らなかったことである.僕が学部1〜2年の頃はまだ網野氏が教鞭を取っていた.僕が網野氏のことを知ったのはネットバブルの最中,若いSFC出の映画監督の息子が営む新宿ゴールデン街の飲み屋で夜通し口説いた女性編集者がたまたま網野ファンだったからで,その頃にはもう網野氏は神奈川大学を去っていたし,僕は僕でITライターを続けつつ,籍を置く会社が上場し,そこの仕事で設立した書籍通販のeコマースとコールセンターと物流のシステムを3ヶ月で立ち上げたり,手伝っている会社が身売りしたりと,とても平日に大学へ通えるような状況ではなかった.

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

この本は読み終えたばかりで咀嚼し切れていないのだが,すごく人間的な歴史への視線と,マルキシズム的な理想との奇妙な同居,そして学者家族の闊達な議論で無名の民俗学者だった中沢氏の父親が網野氏に与えた影響とか,いろいろと考えさせられるところがあった.
話が飛ぶのだが,ここ数十年という短い歴史しかない情報産業の流れを読み解くときも,技術,アーキテクチャーやリーディングカンパニーの変遷といった表の歴史とは別に,現場のプログラマやSEがどういったメンタリティで,何を学び,何を信じ,何に憧れて,どう仕事をしたのかといった,情報産業の常民文化のようなものが非常に重要な役割を果たしているのではないか,ということを薄々考えている.
数年前,ちょうど東証の事故とかがあった頃に宴会で隣り合わせた大手SIベンダのCTOに「なんでこう,情報システムの信頼性がこんなに下がってしまったんでしょうね」と話を振ったら,僕はシステムの複雑化とか2007年問題のような回答を期待していたのだが「いやー,昔は大型機を触れるのってエリートだったし,SEはコンピュータサイエンスの基礎を叩き込まれていましたからね.今じゃ文系からもいっぱい入ってくるし,中身のことを分かってる連中なんて一握りでしょう」といわれたのだ.
そうか,団塊の世代でSEって特別な仕事だったのかなー,と妙に感銘を受けただけでそのときは終わったのだが,振り返って考えてみるとプログラマの生産性なんて何十倍も違いがあるのに,数字で把握できるのは味気ない人月単価とか開発規模だけで,ひとりひとりの受けてきた教育,エンジニアとしての質,チームとしての共通の知的土台や文化,使命感や職業倫理といった仕事の質に大きく影響するところについて,あまりに無視して議論していたのではないかなあ,と.
僕のみてきたエンジニアって,インターネット・インフラ系,Webベンチャー系,金融系,通信キャリア系とかすごく限られているけれども,それぞれ持っている知識も,所属するコミュニティも,士気や夢や希望も大きく異なる.個別プロジェクトの成否をみると結局はヒトや組織に起因しているのであって,産業とか歴史の過程で起こったことを深く理解するにも,そういった情報システムを末端で支えるヒトに着目し,そこに影響を与えようとするならば,資源配分のさじ加減だけでなく,それが誰をどう巻き込み,どういった価値を体現するのか,どういったコミュニティを育み或いは殺すのか,といったことを考えなければ本質がみえてこない気がする.
プラットフォーム技術の多くは,技術者の能動的なコミットを必要とするのであって,その成否は単純に水平分業とか垂直統合とか,競争優位といった経済観念だけで唯物論的に決定されると仮定するのではなく,エンジニアを内側からどう奮い立たせるか,優秀な連中に囲まれ自分が評価されているという高揚感をどう提供していくか,今やっている仕事がどう社会を変えているかを実感させるかといった,意思を持った人間の織り成す社会として捉えてこそみえてくる側面があるのではないか,とか,そういったことを考えさせられた.
技術や政策,企業の栄枯盛衰だけではなく,情報サービス産業の末端で働く人々の意識に着目し,常民文化として情報産業史を組み立てなおすことは可能なのだろうか.まだ分からないけれども,もっと社会学民俗学のアプローチから真面目に学んでみたい.