雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

ありふれた人生

原稿がさっぱり進まないので現実逃避.いま『ビジョナリー・ピープル』を読んでいて,何というか,お題目を唱えなくたって,やりたいことを自分は既に習慣としてやっているんだろうなとかいうことを考え,じゃあ自分は何をやりたいんだろう,とか振り返ってみた.
パソコンは5歳くらいから触っている.けどコードを書くのは苦手.文章を書くことは14〜15歳のときに目覚めた.本を濫読するようになったのもそれくらいから.役所に出入りしたり政治家に何かを吹き込むようになったのは18くらいか.俗な話だが.
家に帰る途中で思いついたのは戦後史に強い拘りがあるということだ.高校新聞をやっていた頃,GHQの教育政策から70年安保後くらいまで,かなり詳細な資料を集めて勉強した.コンピュータの歴史に対する強い興味も,きっと戦後史フェチの延長線上なんだろうな.そういえば中学の頃,溝の口の本屋で平積みされていた『日本コンピュータの黎明―富士通・池田敏雄の生と死 (文春文庫)』を食い入るように読んだっけ.
まあ,だから,これからどう生きるにせよ,それを普通の人生だって感じるのだろう.何というか,これまで気付かないうちに,やりたいことをやってきたのだろう.それに意味があるのかどうかとか,よく分からない.楽しければそれでいい気もする.何というか,知る喜びとか,知ったことを他人に伝える喜びのようなものには手応えを感じることもあるが,腑に落ちたところで,腑に落ちるだけで終わってしまうというか,なかなか世界はガラガラと音を立てて崩れない.
何がありふれた人生で,何がそうでないかというのは,よく分からない.周りから普通じゃないと思われている多くの人も,主観的にはありふれた人生を送っているのではないか.これまで獄中ン十年のテロリストとか,オウムの元幹部とか,カニバリストとか,小説家とか,高級官僚とか,政治家とか,大金持ちとか,色々な人々と会ったけれども,会って話す分には,みんな普通に生きている.僕の曇った目には人間の深淵のようなものを覗けなかっただけかも知れないが,まあみんな人生なんてそんなものなのだろう.それはつまらないことでもあるが,本質的なところで人間って平等なのかも知れないねとも感じる.
だから逆に見えない壁を乗り越えて好きなことをやってみればいいのだろうし,壁を乗り越えるには,壁の向こうにいるひとと戯れるなり横から眺めるのが手っ取り早いのかも知れない.どう生きても淡々と日常があるのに,残念ながらデフォルトの世界って意外と狭いものだ.底を突き抜けた途端,すごく楽になったりするんだが,それまでガラスの底は奈落の底にみえたりする.落ちてみると,肩の荷が下りて,世界が少し広がったように感じることもある.しかし人生で成功って何なんだろうね.たぶん自分の周りにガラスを張り巡らす様々な権力があって,そこから飛び出すことを内側にいる間は失敗と考えるのだろう.
まあ何というか,人生万事塞翁が馬ってことですかね.ありふれた人生を送っている僕としては,ありふれた締めしかできないが,それが失敗かというと,よく分からない.きっとそういうものなんじゃないかな.

まあ、普通の人はありふれた人生ですよ。
っていうか、失敗する人生を恐れているとしてら、時間が解決してくれる。つまり、人生は失敗だった。Q.E.D.
まあ、どう生きても人生だよ。