雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

それぞれの似たような人生

東野圭吾が不倫を描くとこうなるのか,結構リアリティはあった.しかし本人にとって劇的なドラマが,引いた視点でみると月並みというのは,どういうことなんだろうか.歴史から学ばずに過ちを繰り返してしまうのだろうか.何というかきっと,落ち着くかたちに落ち着くポジティブフィードバックのパターンみたいなのがあるんだろうな.
なんかAmazonの書評で女性評者は「男の自分勝手な恋」とムカつき,男性評者は「ロマンチック」とか書いているのをみると,ああ世界って立ち位置によってかくも違ってみえるのかぁ,とか考えさせられる訳だが.個人的に既婚者が誰かと恋愛すること自体を不倫と呼ぶのは,微妙にPolitical Correctness的にどうかという気はする.まあ誰も「既婚者の恋愛が人倫に悖るとは限らないじゃないですか」とか抗議するとも思えないが.
しかし作家って恋愛とか不倫とか随分と生々しく書くけれども,どこまで実地で経験したものを昇華しているのか,取材しているのか,それとも頭で考えて書いているのか,すごく気になる.もちろんフィクションもあるんだろうけれども,実感してないと書けない人間洞察もたくさんあるのだろう.
10代の頃とか駆け抜けている時は劇的と感じ,いずれ小説とかに書きたい諸々の経験をしたような気もするが,だいぶ忘れてしまったし,それだって引いて捉えると月並み,とか考えて表現欲求が迸らないどころか思い出せもしないのは哀しい.
実家が引っ越したとき,昔やりとりしていたラブレターとか軒並み段ボールで送りつけられた.別れたときに過去やりとりした手紙を全て突き返してきた相手がいて,自分の10代半ば頃の文章を読む羽目になったが,これには赤面する.妻からは捨てろといわれているが,まだ捨てていない.捨てていないが,あまり妻子に読まれたくもない,複雑な心境だ.
10代末から20代にかけて電子メールで行ったやりとりの多くは,あちこちのハードディスクに散逸して失われてしまったが,gmailとかmixiでのやりとりは大概が残っていて,こういうものを数年後に読み返したとき,どういう気持ちになるのだろうとか考えさせられる.
最初につくったWebページはweb.archives.orgでみつかったが,一人暮らし時代に自宅サーバーで立てたhnsの日記は失われてしまった.デジカメも熱心にパシャパシャ撮る割には,ちゃんと残せていない.閑話休題
引いた視点で後から振り返ると月並みであっても,自分にとってそういったことは一期一会であるし,劇的と感じて一生懸命にその場その場を生きていくことが大事なのだろう.わたしの脳は物事の偶有性と類似性とを同時に実感しながら世界を捉えるほど,器用にはできていないのだが.
ラブレターもblogエントリーも,真夜中に投稿する前に翌朝チェックしないと危険だけれども,読み返さず投稿した方が本質を突いていることもある.問題はそれが翌朝だけでなく,10年後や20年後にも読み返すことができたり,Google検索で引っかかるかもしれないということか.