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ぼちぼち再開しようか

スマートモブズはジャーナリストの夢をみるか

献本御礼.物書きを志しながらも筆一本じゃ食えずにIT業界に転じた副業的文筆家 兼 ブロガーとして,マスコミやら論壇・文壇に対する微妙な嫉妬を抱きつつ「いずれ言論界もフラットになるんだぜ」とか怪気炎を上げたい気もするが,本書はネット上での言論について実例を挙げて肯定的に捉えつつも,過大評価や公共性を巡る課題について的確に指摘している.
本書では最後に「ことのは事件」を取り上げ,ネット上での言論が著者の属性ではなく言論そのものの中身を通じて評価され,匿名であっても討議過程の可視化を通じて一定の公共性が担保される「闘技的民主主義」が実現されていくのではないかと期待している.
言論界は氏の指摘のように着実にフラット化するとして,民主主義に於ける政治過程や政策形成過程,戦争や外交交渉・経済運営などの戦略・戦術を全て可視化することは,リップマンが『幻の公衆』で指摘したように,性質上かなり難しいのではないか.
話を言論だけでなく民主主義にまで広げた場合,フラット化によるマスコミの地盤沈下が政治状況に思わぬ副作用をもたらす可能性がある.リップマンは輿論(public opinion)と世論(public sentiment)とを分けて論じているが,サイバーカスケード等が生じるのは主として情すなわち世論に訴える領域だ.
「ことのは事件」の渦中にあった泉あいさんの葛藤に限らず,何もかも詳らかにすれば問題を解けるとは限らない一方で,詳らかにせよという言説は圧倒的な強度を持つ.ブログの多様性は,物事の多面性を斟酌した優れた輿論をも包含するとはいえ,それらはともすると公共性を共有したつもりでいる小規模なコミュニティの評判ゲームとして自己完結してしまい,過激な言論ばかりが耳目を集めがちではないか.
世の中には共有し難いが判断に決定的な影響を与えうる強度を持った情報もあって,そういった非公開情報に基づく高度に政治的な判断の公共性は,従前であれば良かれ悪しかれ,番記者と取材対象との個人的な信頼関係や,排他的な記者クラブ制度を通じて維持されてきたのかも知れない.とはいえ往年の由らしむべし,知らしむべからずという体制は,その正当性を着実に失いつつある.
わたしはマスコミの持っていた隠微な特権が剥奪されることを時代の宿命と感じる一方で,情報は須く開示されるべしという強い浸透圧を持つ社会が,逆に当事者による情報の囲い込みを促し,判断すべき為政者や有権者に対して適切な情報が渡らないことを懼れる.安倍政権のドタバタをみていると,それは既に権力中枢で起こっていることなのかも知れない.
無論フラット化は情報の囲い込みを促すだけでなく,非公開情報を持った個人の洞察に触れる機会をも増やす.これまでマスコミ報道では触れることのできなかった官僚の本音とか,専門家の見立てとか,様々な人々の内在的論理に触れる機会が増えたことは,自分自身が世界観を組み立てていく上でもとても勉強になった.公開資料の充実と,こういった内在的論理の発露の充実とは,両輪となってブログ論壇の質を高めていくことになるだろう.
一方で,一部のブログ論壇が言論の質に於いてマスコミのそれを上回ったからといって,既存のマスコミが淘汰されることはないだろう.何より為政者は統治の道具として統御可能なマスコミを必要とし,土地の払い下げや周波数割り当て,記者クラブへのアクセスといった有形無形のアメを用意して飼い慣らしてきたのだし,既存マスコミの影響力が従前のようにいかなくなれば,強い影響力を持つブロガーも懐柔の対象に加わるだけだ.
それは言論の多様性を担保する上で,必ずしも悪い話ではない.懐柔に直面するアルファブロガーは,情報や報酬へのアクセスと,読者からの評判の維持との間で逡巡する,その葛藤そのものもまた公共性の一部を構成し得る.利権で飼い慣らされたマスコミが,記者を終身雇用で飼い慣らすよりは遙かに統御の面倒な世界が現出することにはなる.
むしろ私が危惧するのは,政府がもっと直截的なやり方でネット上の言論に介入しようとすることの方だ.迷惑メールのフィルタリングやP2Pの帯域制御といった,ネットワーク管理やセキュリティ上の問題に対して総務省が厳密に通信の秘密との兼ね合いを問うのに対し,明らかに憲法の定めた検閲の禁止と抵触するWebのフィルタリングについては各省から補助金が出ていることは実に示唆的だ.
「通信の秘密」「検閲の禁止」といった法的理念と照らして矛盾しているかにみえるこれらの政策も,政府が通信事業者や情報発信者に対して行政指導し得る糊代を確保しようという点に於いては一貫している.ネット上での情報発信に対し「公然通信」として網をかけようとしている通信放送融合法制の検討もまた,そういった流れの一環という見方もできる.
もちろん時代の変化に応じて,新しい情報発信者に対して社会的影響に見合った責任を法的に規定することを規制強化だからといって必ずしも否定すべきでもないし,ネット上の言論が重みを持つ以上,それに応じた責任を法的に問う仕組みをつくることは社会的要請でもあろう.
タイタニック事件を教訓に電波監理が行われるようになるまで,アマチュア無線家にとって電波はフラットな世界だった.いま電波といえば,マスコミ利権の中核であることはいうまでもない.ネットもまた政府からの干渉よりも素早く変貌しているからこそ現時点でフラットなだけであって,それが人間によって発明され,運営されている以上,いずれ社会の構造と相似していくと考えた方が自然ではないか.
それは必ずしも悲観主義や保守主義ではなく,ネットが社会を変え,社会がネットを変える相克を通じて,我々自身がどこへ向かうのかに対して関わることができる,ということでもある.このフラット化した世界の中で,僕らは1票によってだけでなく,1つのエントリや1つのコードを通じても世界と関わることができるのだから.