雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

自分探しの起源

仮に「受験勉強」が若者の個人主義を涵養するならば、日本の戦後成長はなかったのではないか。問題は年金と一緒でサラリーマンでいることの保険料が世代によって著しく不平等だから、若者は燃え尽きる前に馬鹿馬鹿しくなって降りてしまうのである。今の会社も日本社会も、若者が安定を期待してコミットする対象としては理不尽かつ泥舟に過ぎるのだ。まあ泥舟に乗っていれば団塊世代の坊ちゃんだって政権を投げ出して病院に引きこもるご時世だし、人間なんてそうそう簡単に本質的に変わるはずがなく、違うのは時代とか空気って奴なのだろう。

「受益者が私ひとり」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ不思議な労働観が生まれたのにはもちろん理由がある。それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。
(略)
私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためでも、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである。成人の労働ができるだけ多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。この代価は決して高いものだと私には思われない。

逃げ切りつつある団塊オヤジから説教されるとホント頭くる。というか団塊世代が自分たちの労働観について成長によって希望と手応えを与えられたことに無自覚なまま無責任な若者批判に淫しているから、こうやって崩れつつある社会への信頼を立て直さず「教育の崩壊」(?)*1を拱いているのではないか。
僕ら失われた世代は卒業時点でまともな就職口が少なく、運良く正社員になれたところで仕事は連日忙しく、部下がつかず頭でっかちな組織で下働きを押しつけられ、給料もなかなか増えない。会社にしがみついていれば生き延びるチャンスがあるかも知れないがジリ貧である。ジリ貧を避けようとドカ貧に突っ走っては元も子もないが、そこで達観してジリ貧を受け入れるのも若者らしくないではないか。
ジリ貧から抜け出そうと僕のように外資に転職する奴もいれば、米国に移住しする奴や起業しようという奴もいる。それと同じように社会人大学院に入ったり、学生時代の夢を追っかけ直したりとか、そういうのもあるのだろう。そういったモラトリアムな出口戦略さえ見出せず、ニートになってしまう奴もいるのかも知れない。そしてまた真っ当に勤めようとしても、フリーターの口しかないというのはありそうな話だ。
フラット化する社会は、そういった若者の逃走を受け入れる。才能ある若者にとっては既得権にしがみつく妖怪どもと正面きって戦うよりは、伸びている業界、活気ある世界へと羽根を伸ばした方が合理的なのだ。そして若者たちが労働から降りたところで、輸入なり移民の受け入れを通じて、日本が豊かである限りは矛盾が顕在化しないのだろう。日本国内でみれば格差の拡大だが、世界でみれば格差の縮小ではないか。勢いある中国やインドの若者たちに工場でガツガツ働いていただき、フィリピンから看護師を受け入れればいいのである。
問題は、それが持続可能な経済戦略にみえないことだ。そうやって怠けていれば、いずれ日本は豊かでなくなり、老人ばかり抱えて何もカネで買うことさえできない国になるだろう。身を守るために、自分や子供たちはコスモポリタンとして日本がダメになっても生き延びられるように育てたいなと考える一方で、本当にそれだけでいいのか、やっぱり身の回りからどうにかすべきではないか、という良心もある。
それは結局のところ日本が成熟しつつある中で、何を目標に、どう頑張り、それなりに矛盾や理不尽と向き合いながら、賢い連中たちにとって離脱よりも公正かつ魅力的な選択肢を示し、投げ出した連中たちに馬鹿馬鹿しくない彼らがコミットし得るビジョンと手近な手応えを提供することだ。それは人生の先輩としてシタリ顔して「生き残るために長いものに巻かれろよ。夢見てるんじゃないよ」とか諭すことではなく、もっと身近で嘘っぽくない小さな物語を、ひとつづつ育んでいくことなのだろう。
それって髪を切って大企業に入り、おセンチに革命家だったかも知れない自分を振り返りつつ、何だかんだいっても経済成長を甘受した世代よりは意外と過酷な生き方であって、そんな自己犠牲に酔うよりは、やっぱり適当に英語で喧嘩して派手な仕事に飛びつくことの方が楽だし割に合う投資だよなぁという醒めた自分もいる。まぁ自分だってシガラミさえなければモラトリアムに三文文士だけ続けて毎晩酔っぱらって適当に浮き名でも流していたいのだが、人生なかなか思い通りにはいかないものだ。

*1:そもそも本当に何かしら崩壊しているのだろうか。わたしの息子が通っている公立の小学校で、先生は非常に真摯に教育に取り組まれている印象を受けるし、コミュニティも機能しているようだ。それは木をみて森をみずかも知れないが、子供がいなかったり既に大きくなっている方よりは、学齢期の子を持つ私の方が公教育を身近に感じているし、あまり悪い印象は持っていない。「教育の崩壊」って、どこにあるのだろうか。誰かが血眼になって絵になる崩壊を探して、針小棒大に喧伝していたりという可能性はないのだろうか。