雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

たまには日記っぽく書いてみる。

今日は箱根での旅行からロマンスカーで戻るなり会社で夕方からミーティング。先週とある勉強会で勧められた"The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology"を日曜Amazonに発注したところ、さっそく会社に届いてた。開封したがデカいので自宅には持ち帰らず。そのとき話題に上がった受動意識仮説について、パラパラと論文を斜め読み。ああいうのは相互作用であって、どちらがどちらを一方的に支配しているということはないだろうし、そもそも脳が巨大なクロスバーのようなもので、意識が末端の神経の発火にも宿っているとするならば、末端で起こった神経の発火も意識の作用であるのかも知れず。
ところで先週読んだ『勝手に絶望する若者たち (幻冬舎新書)』はなかなか参考になる。「好きなことをしろ」といわれて無限ループに陥る若者は、みたいな。若者批判と思い批判的な気持ちで手に取ったが、実際は産業医が悩みながら書いていて共感を覚えた。選べる中から選ぶしかないというリアリティは、いつから隠蔽されたのだろう。この犯人は日教組よりも80年代以降の消費社会とか、そっちが大きいんじゃないかね。渡鬼みたいのばかり観るか、トレンディードラマをみるかの違い。夢見がちな方が大盤振る舞いってのは、意外と長続きしないモデルかもね。
新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)』『新装版 坂の上の雲 (2) (文春文庫)』読了。このペースなら来週いっぱいで全て読み終わるかなあ。太平洋戦争どころか、日清戦争さえ政権の意図しないかたちで始まっていて根にあるのは明治憲法で規定されていた統帥権だったとは。ただ少なくとも日露戦争までは落としどころを探りつつの戦争だったのだろうが。右肩上がりの時代は優秀な野心家に機会が与えられ、飽和した途端に頭でっかちが増殖するのは、戦後ナントカや平和ボケではなく日本的ガバナンスに内在する欠陥なのだろう。日本に居続けるのであれば機会を得るには煮詰まっていない領域を追い続けるか、それが難しければ日本を捨てる覚悟でもすべき。
丸山真男をひっぱたきたい」とか空回りしている暇があれば、初めから豊かな世界に居合わせたのも運、初めから煮詰まった世界に居合わせたのも運と観念して、いまや頑張ったって誰も何も約束してくれない世界なんだと割り切って人生を切り開いたらどうだろう。誤った期待があるから裏切られて逆上し誰かを恨むのであって、その期待は結局のところ教育制度に子供たちを隷属させるための動機付けの道具に過ぎないのだから。戦争によるどんでん返しを期待するなんて腑抜けだね。僕が中学の頃、中間試験の前に「明日にでも大地震がこないかなぁ」と密かに期待していたのと変わらない。
多数派なんて幻想に過ぎない。子細に検証すれば、様々な異なる境遇を抱えた無数のクラスターがあるに過ぎない。それを利害や理念で扇動して多数派にみえる何かをデッチ上げることこそ大衆政治だ。そういう意味で投票も革命も多数派のためにあるという負け惜しみには扇動家として甘えがあるのではないか。自分を少数派と定義したところで、あなたは負けている。自分こそ隠れた真の多数派であり、自分の利益を守ることが社会正義に繋がると訴えるべきだ。
解雇規制撤廃については僕も正社員でありながら賛成する。実際のところ今も昔も多くのヒトは中小企業に勤務していて、実質的に終身雇用でなかったり、そもそも就業可能年数のあいだ会社が存続する割合が限られている。終身雇用を約束された大企業の正社員こそ実際は少数派である。主張と論点を精緻化すればいくらでも多数派を形成できるのに、赤木氏は端からは明後日に向かって先鋭化しているようにもみえる。もっと洗練されたイデオローグが出てこないものか。