雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

暴走の構図

日露戦争くらいまではうまく回っていた日本が昭和初期には変になったことと、戦後50年は荒波にもまれながらも成長してきたのに失われた10年以来の体たらくと、何か共通性のようなものがあるのではないかと考えて乱読している。
まだ煮詰まってはいないが、日本がうまくいっているのは方向のはっきりしている時期で、それは明治天皇制も戦後民主主義も同様だが、サブスタンスを重視しつつ建前の様式美もでっち上げる。結論を先取りして辻褄を合わせることで、非常に効率的に目標を達成するのである。
けれどもサブスタンスについての暗黙知が失われた世代から、でっち上げられた様式美が気がつくとプリンシプルとして扱われ、自家中毒を起こしてしまうのではないか。もともと日本にはプリンシプルがないからこそ、議論の積み上げをすっ飛ばして目標に飛びつけるのだし、だから誰もが共有できる目標が失われた途端、便宜であったはずの建前が様式美を以て正統性を主張し始める訳だ。
だから日本政治が迷走から脱却するには、恐らく理屈抜きに共有できる目標をつくるのが手っ取り早い。結局のところ戦後民主主義も戦前の価値観も同じように、目的合理的な価値体系に過ぎない以上、目的が異なる現代から参照しようとしても、国民にとっての普遍的価値観とはならない。
明治政府が一神教を前提とする近代国家に強引にキャッチアップし、戦後政府がラジカルな民主主義を建前として受け入れたように、これからキャッチアップすべき価値観を受け入れようという姿勢の中で、日本的な執拗低音によって、外部の価値観を換骨奪胎していくプロセスが必要なのだろう。日本で何かプリンシプルを打ち立てようと足掻いたり、過去の日本にプリンシプルたり得るものを探すことは難しいのではないか。
けれどもそれは必ずしも恥ずべきことではなく、日本人固有の柔軟性や先取の気性とも受け止め得る。僕は僕の日本人としてのアイデンティティを、決して普遍的とはいえない過去の因習よりは、未来への姿勢として持ちたい。