雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

確かな未来を誰も約束できない時代

僕もロストジェネレーションだから、労働市場の需給問題を個人の資質に転嫁するオヤジどもの議論には憤懣やるかたないが、上の世代から「技術を身につけた結果、どんなことができ、どんな未来があるか」示された試しはないし、それが上の世代の義務だとは思わない。

日本の将来のためには、若者を正社員にしたくなるように鍛え上げなければならない。そのためには若者に、もう少し「我慢」や「辛抱」を教え込む教育をしてもいいのではないだろうか。

技術を身につけた結果、やりたいものが明確に描けるからこそ技術を身をつけるための辛抱ができるってわけで。
上の世代が下の世代に対してできることは、「技術を身につけた結果、どんなことができ、どんな未来があるか」というのを明確に示すことであり、それは上の世代の義務じゃねえかと俺は考えている。

雇用だけでなく経済や産業構造だって流動的な時代だから、上の世代と同じように技術に習熟すれば同じような人生が待っている訳ではない。生産拠点ごと海外移転するかも知れないし、技術革新によって熟練した技術がコモディティ化してしまうこともある。
どうなるために何を学ぶかくらい自分の頭で考えなきゃ。上の世代に義務があるとすれば、伝承できることは伝承すること、場数を踏むチャンスを若者に与えることであって、未来を掴むために研鑽するのは若者の仕事だろ。そうやって周囲のオトナに依存しようとするから空手形を掴まされるんだよ。
まあしかし先が見えないから我慢できないというのは因果なのだろうし、それは職業教育だけでなく学校教育も抱えている問題だ。だから学校で「我慢」や「辛抱」を教えれば立派な職業人が育つという話ではなく、先が見えないから学校だって「我慢」や「辛抱」を子供たちに強いられなくなっているのが現実ではないか。だから教育に期待したって問題解決にならない。
今以上の豊かさをコミットする以外の方法で、勉強し、働くことの義務を正当化する物語が必要なのである。豊かだから「我慢」や「辛抱」をしないのは、豊かさを約束することで「我慢」や「辛抱」を強いてきた高度成長以来の公共観を確立できていないからだろう。
オイルショック以来、成熟時代へ向けて価値観を転換することの必要性は幾度となく語られてきたにも関わらず一時的な好況の度に議論は振り出しに戻ってきたのだ。企業の新卒志向、学生の大企業志向も同様。もはや持続しないことが明らかなスキームなのに、逃げ切りかかった大人たちと、あまり深く考えない若者たちの共犯関係の中で共同幻想が温存される。
だから「ロストジェネレーションにも好況の配当を」という議論はあまり本質的ではなくて、「また好況に感けて持続可能ではない、成長を前提とした社会システムにしがみつくのですか」ではないか。「頑張れば報われるんだから、我慢や辛抱を覚えろよ」という言説の空虚さは、遠からずロストジェネレーション以外のみんなだって味わうのだろうから。
不確実な時代を生き延びるには「我慢」や「辛抱」だけでなく、自分の頭で考え、夢を育み、道を切り開くチカラも必要だ。無論それで生き延びるとは限らないところが不確実な訳だが、どうせ分からないなら無責任なオヤジどものせいではなく、自分のせいでの人生を甘受したい。