「褒める技術」の在処
僕もつい受け狙いでチクリチクリやってしまう口だが。要は褒めるより貶す方が簡単というか、世の中には鋭い切り口で物事を斬っている文章は数多あれど、鋭く褒めている文章ってあまりないんだよね。だいたい評論家というポジショニングそのものが褒めるより貶すことが専業だから、評論家として名の売れている人が何かを批判し続けるのは生業なのであって、その批判が傍目に中途半端にみえるとしたら、そっちこそがプロとして失格なんじゃないか。
そんな目で、いろいろな「批評系」のblogを見てみると、なかなか趣き深いものがある。まぁdisりってのはウケやすいというのもがあるから、特別に見識を持たなくてもお手軽にアクセスを稼ぎやすいというのはわかるのだが、それなりに評論家として名の売れている人が中途半端に批判し続けるのはどうしたものか。
ミクロなところでコーチングとかいわれているように、貶したって物事は前に進まないが、褒めて煽てると往々にして物事って前に進むんである。会社じゃ周囲を批判しまくっても「彼はヒョーロンカ的で仕事はできない」という評価となる訳だが、マスコミの世界じゃ自分より権威ある何かを完膚なまでに叩きのめすと喝采を受ける有り様とか如何なものか。
ひょっとして他人を褒めまくって世界を変えたロールモデルとかが現れると、世界は変わるんだろうか。例えば梅田さんの文章とか、たくさんのひとを褒めて、多くの読者に勇気を与えて、世界を変えるかも知れないよね。否、そうすると今度は自己啓発という別カテゴリに逝ってしまって、ジャーナリズムとは峻別されてしまうんかな。
まあ何というか文芸評論家の多くは小説を書けないっつーか、代償行為として批判するならせめて建設的にいこうぜとか思う訳だが、ここは逆説というか脆い自尊心を持った評論家ほど譲るべきところで却って強硬に出てしまうところがある。で、それに辟易している周囲だって面倒な奴に絡まれるよりは、生暖かい目で見守る政治的判断に傾きがちではある。
僕もそういうところがあるが「批評系」って結局のところ裸の王様なのだ。動員力を競う「広告系」の方が外形指標に基づいて健全なフィードバックが働く。批評が的外れだから社会を動かせないのか、図星だからスルーされてしまうのかは、批評している本人には結局のところ分からない。その辺を自戒しながら、現実に作用しようとすれば揚げ足を取られないdisり方より褒め方を学ぶ必要があるよね、とか思ったりもする訳だが、それって言うは易く行うは難しだ。