雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

誰が音楽文化を支えるのか

昨晩から国際会議を手伝うため京都にいる。新幹線を降りて地下鉄を乗り継ぎ、ホテルに着いたときは夜10時前だった。飲み屋を探して投宿している五条烏丸から徒歩で四条の商店街をとぼとぼ、高瀬川のあたりまで歩いて川沿いへ曲がるとアコースティックギターを抱えた女性が歌っている。誰か聴いているのかなあと思って周囲を見回すと、ひとり聴衆と思しきは通りがかりではなく付近に屯するポン引きだった。
傍でずっと聴いているのもこっぱずかしいので数百円の投げ銭をして明かりに照らされた小さなイーゼルを覗き込むと、CDが立てかけられていて200円と書かれていた。「これは自分で焼かれたんですか」と聞くと、彼女は嬉しそうにそうだという。ジャケットだけでなくCDのレーベル面にも素敵な意匠があしらわれていた。CDのブランクメディアが安くなったとはいえ、印刷の手間なども考えると面倒そうだし、元が取れているかどうかも疑わしい。ひとつ買うよといったら彼女ははしゃいで手提げ鞄から新しいCDを取り出し、名刺をくれた。時々このあたりでストリートライブをやっているという。名刺にはQRコードとblogのアドレスが書かれていた。
それから高瀬川を渡って猥雑な街角の大衆居酒屋でレバ刺しと鱧の唐揚げを突きながら発泡酒や焼酎を呷り、もらった名刺のQRコードを携帯にかざしてみたのだが認識しない。バーを梯子してホテルに戻った時には深夜1時前だった。買ったCDは早速リッピングしたがCDDBには登録されていなかった。
翌朝おもうところがあって彼女の名刺に書かれたblogにアクセスしてみたら、1枚目のCDが売れたと喜ぶ書き込みがあった。きっと僕のことだ。その1ヶ月ちょっと前のエントリで、音楽活動を始めるとか、スタジオで収録したとか、僕の買ったCDのジャケ写とかも載っていた。ちょっと気になってblogをRSSリーダに登録した。僕がいつ次に京都に行くかは分からないが、僕は自分が最初の客となったアーティストの今後のことを知ることができるだろう。
彼女に限らずアマチュアアーティストが自分の曲をCDに焼くのはよくあることで、実費で販売していることもあれば名刺代わりに配っているひとも少なくない。地元のバーで意気投合してCDを貰ったときは、お代を断わられてカクテルを1杯おごったこともある。
数年前ニューオリンズに行ったとき、ジャズ発祥の地というのでバーボンストリートを歩いたが、くたびれた観光客向けの奏者ばかりだしバーボンは高いし散々な目に遭った。滞在最終日の夜に同僚と入った日本料理屋で愚痴をこぼしたら、それを小耳に挟んだ日本人ウェイトレスが「バーボンストリートには観光客くらいしか行かないから。フレンチクォーターの先に行けば地元の人々が集うジャズバーがある」と教えてくれた。
夜も更けて同僚たちはホテルに戻ったのだが、僕は40分くらいかけてウェイトレスの地図への書き込みを頼りにフレンチクォーターの先まで歩いた。するとそこには毎日違うアマチュアバンドがジャズを演奏し、地元で彼らを応援している人が集うアットホームなバーが並んでいた。10ドルできっちりワンフィンガーのバーボンストリートにある観光客向けジャズバーと違って、5ドルでなみなみと注いでくれて、バンドもマイクなしで真剣に歌っていた。必死の演奏に感動してチップを渡したら嬉しそうに強く握手して”Thank you”といってくれた。ハリケーンカトリーナの被害が心配だったのだが、あの辺りは今どうなっているのだろう。
正直いって僕は素人だから音楽のことはよく分からない。確かにミリオンセラーになる曲は洗練されているけれども、彼らだって最初はアマチュアだったのだろうし、音楽の楽しみは聴くことばかりじゃない。たまたま街で気になったストリートミュージシャンが普段どうしているのか簡単に知ることができて、たまたまバーで飲んで意気投合してCDを渡されるとか、彼らを暖かく応援している人々の緩やかな繋がりとか、音楽を機縁として様々な人間模様があるのだ。
対価を支払うとか商品を購入するという近代的で疎外された関係だけでなく、素直に感動を伝えるためにお金を払って、そのことを縁にアーティストと繋がることがとても簡単になった。音楽を聴く権利という風に物象化されたパッケージングするから、ダウンロードのような代替手段に食われるのであって、そうやって人と人の心が繋がっていく、彼らが音楽活動を続けられることを願い、それは生活を支えるほどでなくても、いつも聴いているよ、あなたを感じているよということが伝わるだけで、表現者はモチベートされるだろう。実際、数でいえば音楽で食っている人々より、そういったアーティストがずっと多いのではないか。
文化の豊かさという尺度での議論は難しいものがあるが、経済規模よりは参加者の裾野の広さや多様性、視聴者の成熟度が効いてくるのではないか。賭け金が上がって流行り廃りでポジティブフィードバックの働きやすいメジャーより、様々な試みが行われてアテンションを競い合うインディーズでこそ新しい何かが生まれつつあるのではないか。
いまや日本のベストセラーの半分は携帯電話で執筆されていることを世界は驚嘆の目で見ている。ケータイ小説の素晴らしさが僕にはよく分からないが、あのヘンテコな日本語はいずれ明治期の言文一致運動のような、日本語の重要なイノベーションとして評価されないとも限らない。
革命は常に周縁から起こり、それは今やケータイやSNSといった技術にエンパワーされて、瞬く間に社会のメインストリームへと躍り出るようになった。頭の固い大人たちをスルーして暴力的なアクセスや購買力が文化を突き動かしていくのだ。
音楽の世界だって書籍と同じように、オリコンチャートを意識して売り捌きようのない枚数のCDをプレスするという時代錯誤で不毛なチキンレースは遠からず終わり、いくつダウンロードされたか、総額いくら寄付を受けたか、世界中でノベ何時間再生されたか、そこからどういった二次著作物が生まれたか、誰をどう触発したか、何にマッシュアップされたかといった、もっと本質的な尺度で測られるようになるだろう。
SNSでファンを囲い込んで暇をみて電撃ライヴを行う兼業ミュージシャンも増えるだろう。ライヴに駆けつけられない時はUStreamで中継をみることもできる。新人発掘を諦めたレーベルは、勃興しつつある新たな音楽文化にただ乗りして、成功者たちをマネタイズするインフラとして今後も残るに違いない。ケータイ小説を平積みにする書店のように。
けれども新しいアーティストの多くは、自分たちの登龍門であったネットを無下にはしないはずだ。そして僕らはこれまで通りヒット曲も押さえつつ、もっと個人的に繋がりを持ったアーティストを応援することにコンテクスチュアルな愉しみを見出す。
ストリートライブの文化は昔からあったが、チープ革命によって今やCD製作やダウンロード配信、ライブ中継、ファンクラブの組織化など、レーベルの支援なしに誰もが自由に総合的な音楽活動を展開できるようになった。これからの音楽文化を支えるのは、昔のような新人育成を放棄してベストアルバムの焼き直しと不毛なプレス競争を突き進む大手レーベルではなく、ボトムアップで新たなアーティストを応援する成熟した消費者ではないか。この革命は着実に進行しているし誰も止めることはできない。
この大きな流れの中で私的録音補償金の適用範囲など恐らく些細な問題でしかない。しかし、この先の音楽文化を誰が支えるかは、今後のコンテンツ政策の方向性を議論する上で、少なからず意味がある論点ではないか。