雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

有害サイト規制の前に議論すべきこと

来る通常国会では先日報道された未成年の携帯電話に対するフィルタリングの既定有効化だけでなく、有害サイト排除へ向けた独自法案の提出も準備されているようだ。わたしも三児の父として子供たちのネット利用に当たっての安全には強い関心を持っているが、規制する前に議論すべき様々な論点が俎上に上がっていないことに強い違和感を感じる。「子供を守るために」と前面に出されると反論し難いが、法制化の前に議論すべき課題が山積している。

民主党は18歳未満の若年者が犯罪に巻き込まれるのを防ぐため、インターネット上の違法・有害サイトの削除をプロバイダーなどに義務付ける法案の国会提出に向け、党内調整を始めた。

違法・有害サイトと一括りにされるが、違法サイトを削除するための法律は既に整備されている。いわゆる「プロバイダ責任制限法」だ。違法サイトの通報を受けて削除すれば、プロバイダは免責されるという法律だ。この法律は、詐欺や海賊版や薬物等の売買といった明確な違法行為に対して適用できるが、自殺サイトや学校裏サイト、出会い系といった違法性のないサイトを閉じることはできない。いま議論されているのは、違法サイトだけでなく有害サイトによる未成年への被害をどう防ぐべきかという点だ。
違法サイトに加えて有害サイトを規制することの問題は、有害サイトの定義が明確でないことである。例えば最近モバゲータウンで知り合った女子高生を無職の成人男性が殺害し、ホテルに放火する事件があったが、モバゲータウンはゲームサイトなのか出会い系サイトなのか。出会う可能性のあるサイトを全て出会い系サイトと定義し、それを有害と括ってしまったら、極論すればチャット機能を持つネットゲーム全般が有害サイトとなってしまう。ネットゲームだけでなく、blogやケータイ小説SNSといったCGMは全てNGとなるのだろうか。
掲示板やblogといったCGMサイトを全てリストアップすることは極めて難しいので、現実的にはポジティブリスト方式にせざるを得ない。つまり決められたサイト以外は一律にアクセスを禁止するということだ。2chmixiニコニコ動画だけでなく、WikipediaSlashdotにもアクセスできなくなる公算が高い。
そして未成年向けサイトを運営したい国内事業者はガイドラインに沿って慎重にCGMやコミュニケーションを排除したサイトを構築し、どこぞの外郭団体詣でを繰り返して適正サイトなるお墨付きを受けるのだろう。海外の学術的に有用なサイトも、利用者インタラクションやCGMを採用しているとか、管理が及ばないといった理由でフィルタリングされてしまうことになる。
そこまでガチガチに規制したとしても、PCは個人と紐付いていない場合が多いので実際の運用はザルになる。年齢確認の甘いネットカフェが繁盛したり、適正サイトで隠語を使ったコミュニケーションが蔓延るかも知れない。つまり過剰な未成年ネット規制は、そもそも法執行を無視した感情的な議論なのである。
確かに先の女子高生殺人のように、個別事例としてネットが不適切な出会いや犯罪の温床となっていることは否定し難い。けれども何時の時代だって未成年と成人との不適切な関係は起こるのであって、それは彼ら自身が望んでいるのだし、ネットがあろうがなかろうが見知らぬ人と出会う無防備な子はいるのである。例えば遠藤周作の『わたしが棄てた女 (講談社文庫)』で、雑誌の文通欄で主人公の青年とミツが出会ったように、ネット以前から、その手の機会はいくらでもあるのだ。機会があることが問題ではなく、そんな機会にも縋りたいほど孤独であったり、何らか感情の平衡を失っていることが本当の問題なのだ。そして不幸にも殺された子が顕在化する一方で、そういう出会いに救われて人生を豊かにしているケースだって少なからずあるのだろう。何の問題もなく顕在化しないだけで。
教育者が議論すべきは、知らない誰かとでも寄り添いたいという心境に子供たちを追い込まないための社会資本をどう整備するかであって、世に数多あるコミュニケーション手段をイタチごっこ的に潰していくことではないはずだ。もし有害サイトこそ問題であるという立論を展開するのであれば、ネットや有害サイトの登場によって、未成年を対象とした犯罪が有意に増えていることをまず実証すべきではないか。そして有害サイトを排除することによる弊害、例えば未成年の健全なコミュニケーションまでもが阻害されてしまったり、学術的に有用な知的資源へのアクセスまでもが制約を受けかねないという副作用も熟慮すべきである。
そういった冷静な議論をすっ飛ばして、弊害も費用も大きく実効性のない対策が「子供を守る」ことを錦の御旗として拙速に法制化されつつあることを強く危惧する。フィルタリング技術は既に市場で運用されており、必要ならば学校や親が自主的に運用できるのである。政府がさらに介入すべき合理的な理由を見出しがたいし、仮に介入したところで中途半端なものとなるだろう。
そして都合の悪いことを子供にみせなければ逸脱しないという教育観そのものが、非常に子供だけでなく親や先生も馬鹿にしたパターナリズムであるように感じる。無菌室で育った純粋真っ直ぐ君こそ良識ある大人になるのだろうか。僕はそう思わない。多感な時期に親に隠れてエッチなコンテンツに親しみ、政治的に極端な連中とも関わり、世界が矛盾に満ちているけれども何となく辻褄の合っている憎めない世界だと知ることこそ重要なのだ。清潔にし過ぎたらアレルギーなる新しい病理が登場したように、子供たちを無害サイトに閉じこめる環境管理型権力は、世界に一貫性を求めるエートスを育んでファシズムの温床となる可能性さえある。僕は少なくとも自分の息子たちに「検定済みWebサイト」以外に、危険思想であっても様々な異見に触れて欲しい。
ご存じのように未成年の携帯電話にフィルタリングが義務化という報道がされてから、mixiDeNAの株価は暴落した。法制化が行われていない段階でマスコミにリークされ、それが株価に大きく影響を与えること自体が大きな問題だが、この事象そのものがフィルタリングの経済的影響力を強く示唆している。新たな利権となる可能性が高いし、有害なる概念が整理されないままに法制化されれば、その裁量権は強大なものとなるだろう。そして他意なく様々な知的可能性が押しつぶされることにもなるだろう。未成年相手であれば憲法で禁止された検閲には当たらないのかも知れないが、戦後憲法で保障された表現の自由や通信の秘密に対する重大な挑戦でないかと、個人的には思う。
未成年の携帯やネット利用に対するフィルタリングそのものの必要性を否定するつもりはないが、それを国家権力が一律で行うことに対しては強い違和感を覚える。ひとくちに未成年と括ろうにも年齢毎に段階的な対応を考える必要があるし、子供の小さなうちは発育にも知的成熟にも大きな差異があって、子供の発達段階に応じたきめ細かい対応が必要だろう。それは国家ではなく、親や教育者といった個々の子供の教育に対して直接的に責任を担うステークホルダが個別に管理すべきだ。例えるならば、フィルタリング義務化とは街でナンパされるかも知れないから街から子供たちを締めだそうという議論だが、本来は親が子に対して勝手に街に行くなよ、知らない大人についていくなよと教えれば充分ではないかということだ。
現実問題としてネットを温床とした犯罪や不適切な関係があることは重く受け止める必要がある。一方で有害サイトなるマジックワードで、議論を強引に推し進める手法は非常に危険だ。この問題は個別事例の検討だけでなく、定量指標に基づく冷静な状況分析を踏まえ、そもそも市場に任せるべきか政府による介入が必要かをきっちり議論した上で、実効的かつ弊害の少ない政策手法を検討すべきではないか。