雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

「羊狩り社会」をぶっ壊せ

小飼さんの書評が気になって『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)』を買いに走った。ロスジェネのひとりとして非常に共感できる内容だ。僕も感じていた親や社会への違和感について淡々と社会学的に分析しつつ、諧謔を交えて繊細なコトバにまとめるセンスはタダモノではない。これなら不毛な論争を惹起せず、勝ち組、負け組、老若男女を問わず課題を共有して対話を始め得るのではないか。
評に反して極めて現実的かつ建設的な政策提言も行われている。年齢差別の禁止や中途採用中心の人材登用は諸外国では一般的で、その気になればすぐにでも実現できる。非正規雇用の比率制限も、業種業態によって不公平が生ずる懸念もあって個人的には反対だが、正規雇用非正規雇用との格差是正と階層間流動性の担保は何らかのかたちで進める必要がある。
しかし日本はいつから、著者のいうところの「羊狩り社会」となってしまったのだろうか。ひとつに階層が固定化し、格差が不可視化された環境の中で、エリートの想像力の欠如を補う仕組みが機能していないのではないか。
天に唾する覚悟で書けば、結局のところ制度をつくる官僚も、制度に注文をつけるべく経団連に出向するスタッフも、下手をすると労組で政策提言を取りまとめるスタッフでさえ、ホワイトカラー正社員の超エリートである。彼らにとってニートやフリーターは政策課題や統計資料としてのリアリティであっても実感の湧かない、自分と違って努力しなかった人々とみえているのではないか。官僚は昔からエリートだったとして、本来なら庶民感覚で行政府を突き上げるべき政治家まで、二世三世ばかり跋扈するご時世である。格差是正は政治家による子息への地盤継承を禁ずるところから始めてはどうか。*1
グローバル化による不確実性の増大に対して、本来であれば国民みんなでリスクを分かち合うべきであるにも関わらず、まだ何も社会からコミットしていない新参者に押しつけたのが格差社会ではないか。それは既存の制度にあって合法的ではあるが、公正とは言い難い。また人材育成という投資を特定世代に対して行わなかったことのツケは、これから数十年に渡って残り続けるだろう。そしてこれは当blogで繰り返し指摘しているように、これは実はロスジェネだけの問題ではなく、団塊世代の入れ替えが一巡しつつある中、これから社会に出るゆとり世代にとっても深刻な問題となる公算が高い。
民主主義の手続きを通じて、世代間対立を解消し難いことは確かだ。けれども「まともに努力する人間がまともに報われる」社会の構築へ向けたハードルは、それほど高くない。団塊の世代は役職定年を迎えて嘱託など非正規雇用に移りつつあるし、若年層でも非正規雇用の割合が高まっている。方向性さえみえれば、非正規雇用層が既得権を握る正規雇用層に対して多数決で勝てる環境は整っているのである。
いうまでもなく日本は資源小国で、エネルギーや食糧を海外に依存している。欧米のように金融や情報サービスで世界を制することも難しい。経済成長率が低くなったことで国際的なプレゼンスも下がっている。まともに努力する中間層の厚みは、極めて重要な社会資本である。ひとがまともに努力するのは、まともに努力すれば報われると信じるからである。努力しても報われないという予期が蔓延したことが、学級崩壊や学力崩壊の遠因にある。
過去にしがみついてもジリ貧しかないのである。移民の受け入れにしても、雇用法制にしても、いくらでも見直すべきことがあるにも関わらず、何故かくも無策でいられるのだろうか。結局のところ団塊世代の黒山もこもこを組織内で勝ち抜いた連中の多くは、いま走っている方向に疑問を持たず、或いは内心の疑問から目を背けてまで競争に邁進できたマキャベリストではないか。彼らは出世のためなら全体を考えず、派閥をつくって仲間内で庇いあい、弱いものを蹴落として生き残ってきた、そもそも転換期には最も向いていない人種ではないか。
だから自分の価値観を金科玉条と信じ、新卒一斉採用や終身雇用を墨守してきた。バブル入社組の賃金を抑制するために成果主義を採用し、新卒採用を抑制してロスジェネに問題を皺寄せすることで、破綻を先送りしてきたのだ。大学は大学で既存教員の就職先を確保するために、高学歴層の受け皿を用意しないまま大学院重点化を推し進めた。かかる「精神のない専門人、信条のない享楽人」たちの行状が、この社会閉塞を生んだのではないか。
我々ロスジェネは決して、正規雇用非正規雇用、大企業と中小企業、産業界と学界・政官界といった反目と分断工作に与してはならない。労働基準法には守られず、連日の国会待機で目を腫らし、膨大な仕事を捌く若手官僚たちでさえ、きっと忙しすぎて世界が狭いだけで、ロスジェネとして同時代を生き、同世代として感覚を共有できるはずである。敵は日常に埋没したところの視野狭窄にあり。
会社で、大学で、役所で、団体で、いまや僕らは立場はともかく最も働き、実際に社会を動かす中堅層である。高度成長やバブルの夢にしがみつき、現実から目を背け、社会の矛盾を弱者に押し付けてジリ貧へと突き進もうとする先達たちをひっぱたき、希望を掴むことは、実は僕らロスジェネの責務ではないか。残された時間は長くない。

いい加減、羊(立場の弱い側)の自己責任ばかり追及するその姿勢を改革してほしい、と思うのである。労働問題は、羊ならぬ羊飼い(雇用者側)と羊の双方がかかわる問題なのだから......。
政策は、個人が自力で変えられることの限界を正しく理解したうえで策定されるべきである。だが、それとは逆の現象ばかり目につく。
私が言いたいのは、問題をすべて社会の側に帰するということではない。要はまともに努力する人間がまともに報われるように、政労使が歩み寄るべきだということである。
たとえば、企業に若年無業者職業訓練を奨励させる(オランダのように)、就労の際の年齢制限を撤廃する(欧米では、一般に雇用における年齢差別は原則禁止である)、中途採用比率を上げる(新卒一斉採用が当たり前なのは日本くらいである)、全従業員に占める非正規雇用者の比率を厳しく限定する、そしてこれらを守らない企業には厳罰ないしは高税率を課す....。といったことができないのは、やはりいまだに日本が「羊狩り社会」だからであろう。

著者は本書で憂鬱と希望を綴りながらも、提案はしていない。赤木智弘のように「戦争の方がましだ」と叫ぶこともなければ、「曾野綾子」のように「君たちは貧困が何たるかを知らない」と言い返すこともない。しかし、だからこそ本書の告発はより深く、より長く読者に留まるだろう。

*1:政治家の子息が政治家になること自体を禁じると、憲法の定める職業選択の自由に反するが、地盤継承を禁じるだけであれば機会均等の観点で合理性がある