静かで動物的な実際の政治と、道化の役割
たぶん昔も今も実際の政治って静かだったと思うんですよ。目についたり報道される紛争とか討議って、セレモニーかカタルシスかハプニングであって、大衆の支持を得たりズレを補正したりガスを抜く儀式に過ぎず、実際の政治は水面下で個別的に詰め将棋のように進む。そこには友も敵もなく、目的に合わせて集散離合する利害関係者の泡宇宙が広がっている。古代ローマの民主主義から絶対王政を経てテレポリティクスの現代に至るまで。
では絶望や希望を騙り扇動する道化は道化でしかないのか。否、議論の前提や焦点は、馬鹿げた喧噪の中で相場観が形成されることもあるのではないか。専制政治でさえ統治の論理と輿論の支持によって支えられていたことを我々はつい忘れがちではないか。
叫びたければ希望を叫べ。それはこだます沈黙となろう。
立ち上がるというなら共闘しろ。それは影さす沈黙となろう。
生き延びるためには沈黙を、そしてその沈黙が生む破壊。
すべてが静かなテロになる。沈黙がすべてを破壊する。
物語なき政治。討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。
それは具体的にはなにを意味するのか。ぼくにとっての「政治」とは、そういう話だ。