雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

文化の変遷への適応と流動性

さほど目新しい話は書かれていないが、比較的よくまとまっている1冊。NGNについては以前から、何故かくも賢い人々が集まって珍妙な網をつくるのか不思議に思っていたんだが、本書を読めば何となく理解できるようになる。
大雑把に要約すると技術系では設備投資計画を決める設備屋が強く、会社全体では人事を握り政治家と結びついている労務屋が強く、幹部は今も電話時代の成功体験に引きずられて、技術を分かって筋を通した人材の多くは関連会社へ飛ばされたらしい。
本書では特に触れられていないが、かつて何故かくもADSLを忌避したのか、なぜπシステムのような中途半端な光化を推進したのか、外からみていて謎だったことの疑問も氷解する。そして本書を読んで考えさせられたのは、成熟期にある企業が如何に時代の変化に適応し、古い企業文化から脱皮することが如何に難しいかということだ。
実際どうかは分からないので一般論になるが、順調に右肩上がりの業績が続くと次第に茶坊主ばかり出世して組織が自家中毒になりがちなのだろうか。どう転んでもうまくいく状況では、道理が引っ込むほど無理を通しても問題が顕在化しないから、賢い奴ほどゲームのルールを理解して筋を曲げてまで組織の論理を通すというのはありそうな話だ。
これは機能単位と評判関係とが一致したホモジニアスな組織で起こりがちなことで、日露戦争の時代に合理的だった国軍が、昭和に入ると皇軍と名を変えて下克上を許し、無謀な戦争に突入していったのも似たような問題という気がする。明治の元勲の目が黒かったうちは評判やアイデンティティが藩閥に属し、機能単位として官庁や軍があって実質的には天皇機関説が機能していたのが、プロパーとして官庁や軍に入って純粋培養された層ばかりになると、便宜だったはずの組織構造や力関係が固定化してしまい、現実とのギャップを理解しつつも、前例を踏襲し組織を守るために、おかしな方向へと舵取りしてしまったのではないか。自分は全体に対して責任を負ってないし、負おうとしても飛ばされるのだという絶望で踏みとどまった人々がそこに残るからだ。
この手の自家中毒はどんな組織にもあるが、終身雇用への期待が未だ残っており、人事部が人事権を握り長期の繰り返しゲームが行われる日本の組織では特に顕著ではないか。けれどもNTTだって時代に適応するために前例に囚われず、外の血を入れたこともある。固定網のフレッツや、携帯電話ではi-modeの成功だ。どちらも電話屋からすれば暴挙といえることを見事に遣り遂げた。
いちどは外の血を入れて変革に適応した彼らがなぜFOMANGNで先祖返りしたのか、というテーマについては考えさせられる。恐らく際物として扱われている間は放っておかれても、それが輝かしき未来像となってしまった途端、本流のテクノクラートに押しつぶされてしまって輝きは色褪せてしまうのだろう。いささか逆説的だが、大組織に於いては会社から期待されないことが重要なこともあるのだ。そして、革新的なものをつくる能力と、予想される未来へ向けて大組織で生き残る能力は、だいぶ違うのだから。この辺は特にボトムアップ型の日本企業が陥りがちな罠ではある。
破壊的な技術革新の多くは、アーキテクチャだけでなく思想の転換を伴う。そして旧いモデルで成功した組織にとって、アーキテクチャ以上に思想の転換が難しい。XML、IP、Web戦略それぞれの世界で、新しいアーキテクチャが成功したが故に、旧来のプレーヤによる旧い発想が上書きされた世界を数多く発見できる。人材や会社や設備は買うことができるが、組織として何を大事にするかという企業文化だけはカネで買うことはできない。多くの企業買収が失敗する所以である。
けれども文化をこそ見直していかなければ、カネに明かして時代に追いついた振りをすることはできても、本当の意味で時代を先取りすることは難しい。順風満帆に成長し、独自の世界観や価値観を持つ大企業の幹部ほど、総論では変革の必要を理解できても、なかなか各論で新しい価値観を踏まえることは難しい。それこそ組織人としての勇気と思慮深さが求められるところなのだろう。