雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

知的生産の価値や成果物とは

かつて物書きになりたかった僕は、書き手としてどう世界に関わるかについて悩みがあった。それは結局のところ物書きにとっての成果物とは何だろうかという問いである。大学が決まってITライターとして駆け出しの頃、この業界で稼ぐには「文化的雪かき」の如く情報を右から左に流していくしかないように感じた。僕が渇望していたのはそうではなく、自分にとって社会的価値があると考えられる、現実を動かす営為だった。

ここで私は、「知的生産力は、『人が思わないことを、人に届ける』能力」と書いた。あくまで「思わない」であり「思いつかない」ではない。そして「人に届ける」であって「自ら思いつく」ではない。
(略)
徹底的に考え抜くのは楽しいことだし、衝突と再発明を繰り返していれば、人はいやでもそうなっていく。しかし考え抜くことそのものは、知的な行為であっても知的生産ではないのである。誰にも語られぬ熟考は、はっきり言ってしまえば出荷される製品を黙々と作り続ける工場にも等しい。
まずは語り抜けるようになろう。考え抜く力は、後から付いてくるのだから。

だから物書きは趣味と割り切り、受託調査の仕事を取り、通研で研究補助をし、国内海外の展示会を取材し、秋葉原の雑居ビルでレジを打ち、自営のコンサルタントを経て黎明期のITベンチャーに潜り込んだ。価値ある仕事とは現実を動かすことで、現実を動かすには現実を知らねばならないと考えたのだ。
実際に社会に飛び込んで驚いたのは、現実を動かすのも言葉だということだ。もちろん多数へ向けた言葉ではない。限られた利害関係者に納得し、決断してもらうための言葉である。彼らが何を重要と考え、どこまで知っているかを斟酌し、手短に結論を出せる言葉でなければならない。
様々な意見が錯綜する中で現実を動かすためには、まさに『人が思わないことを、人に届ける』ことが求められる。この能力は職業的文筆家だけでなく、情報を収集し、判断し、報告し、交渉し、合意をつくり、実行する、全てのビジネスパースンに求められる重要な能力ではないか。そして必ずしも自分で考え抜いた結論とは限らないが、成果の品質を保つには自分なりに仮説検証を行う必要はある。
そして仮説検証の能力を磨く良い方法のひとつは、自分の考えをブログに綴り続けることである。様々な立場の読者や批判者と対峙することは、顔見知りの利害関係者と馴れ合うよりもずっと難しい。空気を共有していないし、能力や立場を斟酌してもらえないし、批判する側のリスクが小さいからである。けれどもそういったアウェイでの言動に対するフィードバックにこそ、自分に欠けていた視点や、論理の抜け漏れが含まれている。
しばしば何のために頻繁にブログを更新し続けるのかと聞かれることもあるが、ブログは他人のためならず、なのである。