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セルフラベリング義務化 高井私案をどう読むか

「有害情報」定義明確化、閲覧防止義務付けについて民主党高井美穂議員が試案を公表した。国がラベリング*1を法律で強制することについては、米国では表現の自由との兼ね合いで断念された経緯があり、その辺の事情に詳しい崎山さんの懸念も尤もではあるのだが、最初の叩き台としては概ね妥当なラインではないか。
所管官庁ならば法改正でいくか、行政指導でいくか、予算措置でいくか政策手段の適正な選択が求められるが、議員の場合は議員立法という方法に頼らざるを得ず、そこで議論が惹起されるからだ。突然の大臣要請で業界を混乱させた昨年末の総務省消費者行政課による措置と比べれば、ずっと民主的な手続きを踏んでいるし、これからの政治過程を通じて様々な提案が出て、あるべき政策手段が模索されることになるだろう。
まず単なるラベリングであれば、情報閲覧の可否について最終的に保護者が主導権を持てるので弊害が小さい。保護者にフィルタリングの導入などの措置を義務付けるというが、恐らく「などの措置」という点がミソで、親としてフィルタリングが不適切と判断すれば、モニタリングや情報リテラシー教育など他の手法を検討してもよいと読める。仮に電気通信事業法改正として提出するのであれば、保護者に対して新たな義務を課すというよりは、通信事業者やコンテンツ事業者の責任範囲を限定することが主眼ではないか。
確かに「どのようなセルフラベルを、どのような判断で付すか、というのは、国家が規定するものか」という点は考えさせられる。実務的にはICRAとの相互運用性を確保してくれないと困るというか、省令でSafety Online 3縛りがかかったりすると非常に面倒。やるならちゃんとICRA Vocabulary 2008 (draft)とハーモナイズしてねという話はある。通信事業者の未成年に対するフィルタリング基準としてセルフラベリングが入れば、法律で義務付けなくともコンテンツ事業者に対してセルフラベリングの普及を図ることは難しくない。
フィルタリングの運用やボキャブラリは、民間主導で国際協調の枠組みで検討されるべきだ。セルフラベリング自体も民間自主規制のかたちで行われることが理想ではあるが、業界が自発的にやってこなかったから今日の状況がある訳で、法律案をベタに読めば国からの押し付けになるが、法案提出自体が「よりメタな立場でセルフラベリングが自主的に行われる環境作りのための」政治的パフォーマンスだという捉え方もできなくはない。少なくとも自分は昨年末の日経新聞民主党による法案提出の動きを知るまで、この問題に関わるつもりはなかった。
自分の言動について反省するならば、検閲とも取れる手法を忌避して、機会があったにも関わらずフィルタリングに関わる活動から距離を置き、結果として問題を放置して特定の利害関係者に委ねてしまったことだ。気付いたら技術的に時代遅れで透明性の欠片もないフィルタリング手法が政府によって推奨され、勤務先の製品が悲惨な品質のまま提供されることを看過してしまった。
こと議員立法への動きが報道されるに至って、普段は気の利いた書きぶりのブロガー達の反応はナイーヴ極まりなかった。問題を継続的に正確かつ冷静に捉えていたのが崎山さんくらいという状況は頭が痛い。秋のICPC合宿でのBOFセッションは素晴らしい伏線ではあった。あの時点で崎山さんとワイガヤで議論していたからこそ、早い段階で状況を理解して論点を整理できた気がする。
まだ楽観できないが、3月中旬に固まる予定の法案に弊害の大きな文言が入る虞はかなり減ったのではないか。とはいえ携帯電話事業者によるフィルタリングを事業者にとって弊害の小さな方向へと軌道修正し、PC向けのフィルタリングを実用的な水準に引き上げるための作業は山積している。今国会で法案が通過するかは不透明ではあるが、仮に通らなくても継続審議となるだろうし、通れば通ったで省令レベルでの詰めをきっちりと見守る必要がある。
より洗練されたゾーニングを提供するために、移動通信事業者のSDPでコンテンツ事業者に対して本人確認に基づく年齢属性などの提供を行うべきか、その場合のプライバシー保護との兼ね合いやコンテンツ事業者に対してどこまで管理責任を問うかなど、これからの課題となろう。先日パブコメが締め切られた警察庁の出会い系サイト届け出制の必要性なども含めて、幅広い視野に立って、総合的に、行政コストが小さく、事業者を委縮させず、実効性の高い制度設計を検討する必要がある。
今回のフィルタリング法制化がセルフラベリングの方向で固まりつつあることは「価値中立的なインフラ」という原則を守るラインに何とか収めることができそうだが、その上で「価値志向的なコミュニティ」をどう形成していくかはこれからだ。これで慢心して制度設計や運用を再びフィルタリング業者を中心とした小さなコミュニティに預けてしまえば、再び温情主義的かつ強権的な議論が再燃する懸念がある。引き続き価値中立的なインフラという原則を堅持しつつ、教育現場や保護者の当惑や悲鳴に対して粘り強く耳を傾け、有害情報に接する上での情報リテラシーをどう涵養すべきかについて冷静に議論しつつ、技術や制度の在り方について建設的な関与を続ける必要があるのではないか。

ised@glocomでの議論をふまえていうと、情報社会は、モデルとしては、メタユートピアとして、価値中立的なインフラと価値志向的なコミュニティの二層構造になる、と。セルフレイティングがもし推進されなければならないとすれば、このような二層構造を可能にする棲み分けのためのラベルとしてだと私は考えている。「子ども」を含めた情報環境は、純粋なリバタリアニズムで構成することはおよそ不可能だろうけれども、しかし、そもそも、子どもがどのように育つべきか、というパターナリスティックな判断さえも、それは全体で共有されるものではなくて、二層構造を前提したものであるべきだ思うのだ。そのとき、どのようなセルフラベルを、どのような判断で付すか、というのは、国家が規定するものか、というと、それは違うだろう。
(略)
私は、セルフレイティングは純粋に民間自主規制の形で行われるべきだと思うし、そこに国家が関わることがもし必要だとすれば、それは、よりメタな立場でセルフレイティングが自主的に行われる環境作りのためのものであるべきで、それを越えるべきではないと思う。

*1:これまでインターネット協会の語彙に合わせてレーティングと呼んでいたが、本エントリでは記事に合わせてラベリングと呼ぶ。2つの語義に違いがあるかは調べているところなので知っているひとは教えて欲しい。第三者の場合はレーティングがしっくりくるが、コンテンツ事業者が自主的に行う場合はラベリングといった方が自然な気も。或いは段階で表現するか属性で表現するかの違いに起因するのか。