雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

決別を超えて

人生なんて簡単に決めるもんじゃないよ。決めろといわれて決まるもんなら探しちゃいないよ。怖いに決まってるじゃないか。しかも周りが決めることを強いる訳じゃないし。先延ばしできるものなら死ぬまで先延ばししたっていいんだよ。人生を探し続けているあなただって幽霊なんかじゃないよ。確固たる自分なんて誰がいよう。それは単に成り行きと厳然たる事実によって固定されているだけじゃないか。

それでは、なぜ著者も含め自分探しが止まらない人々はそれを止められないのか。
自分を決めるのが、怖いからだ。
そして社会も、自分を決めることを若者たちに強いなくなったからだ。

僕は人生に於いて何事も受け身だ。2度目の留年が決まったとき親から「これ以上、学費は払えん」といわれて高校を中退した。向こうから仕事に誘われてIT業界に足を踏み入れた。かみさんが孕んで大学院を諦めて結婚した。仕事をやりにくくなった時に引き受けてくれるというので転職した。今もなりゆきで、あれこれ役割を抱えている。
自分が何者であるかというのは探してみつかるものでもなければ、決めた通りになるものでもない。何者かであった自分に徐々に気づいていったり、たまたま機縁を通じて何者かたらざるを得なくなることもあるだけだ。
生意気な口を利くようになった長男をみてつくづく思うのだが子供って世界が狭い。自分の知らないことなど存在しないと思い込んで、何事も決めつけるのである。色々な目に遭って徐々に世界の広さを思い知るのだろう。
知ったかぶりをする長男に憤ってわが身を振り返ったのだが、いま知っている自分とか世の中の枠に囚われて、自分を何者かたらしめようというのは、けっこう危なっかしい。一方で、探せば今の姿よりも本来的な自分が見つかると確信している奴はどうかと思う。いまそこにいる自分以外に、いくら探したって本当の自分などみつかりはしないのだから。その自分でさえ気付いていない様々な情念や偏見に満ちた得体のしれない何かであることに、時折気付かされる。
程々に自分と、そして周囲と、日々折り合いをつけていく以上に、人生の本質的な何かってあるのだろうか。それをあると気づいた気になることがあれば、それはそれで機縁なのだろうが、そんな天啓は天恵であって誰にでも降ってくる訳ではない。降ってくれば降ってきたで厄介ではある。
けだし自分探しが終わらないのは「あるべき自分」に対する期待値が高すぎるからで、ではなぜ勝手に高い期待を人生に期待してしまうかというと、みんなもっと楽しく充実した生活を送っているようにみえるからだろうか。
最近あまりテレビはみないんだけど、ドラマとか所謂トレンディドラマ(死語?)に限らず、主人公とか若い独身の割に親から仕送りでも受けてなきゃ住めなさそうな都心の高級マンションに住んでいて、真剣だったり確乎たる自分を持って足掻いていたりするじゃない。1980年代くらいからか、消費を喚起するためにドラマの中の若者は随分と優雅な生活を送るようになり、いつの時代も物語を成立させるには分かりやすくキャラ立ちして感情移入できる登場人物が欠かせない。
そうやってメディアが流布するライフスタイルとか生き様に自己同一化すればするほど、今の自分が本来あるべき自分の人生の中で、自分を決めるべきではないタイミングである気がすることはないか。それはひとつの洗練された疎外である気もする。
自分を決めない若者だからこそ企業が簡単に使い捨てることができ、扇動に流されて消費してくれる都合のよい存在な訳であって、人生で豊富であるかにみえる束の間の選択肢だの希望だのって、意外と人々を自由の檻に閉じ込めているのではないか。あの常に期待を先送りすることで人々を宙ぶらりんにして決めさせない構造って、岩井克人が描く不換貨幣に於ける一般的受容性の先送り構造と似ていないだろうか。
希望にも貨幣にも左右されず自分の人生を決めるほどの意志も勇気も智慧もない僕は、無理に何かを決めたり諦めたり血眼になって探すのではなく、自分や周囲と折り合いをつけつつ機縁に身をまかせて、淡き期待を抱きつつ、未知の世界や自分に対して開かれた存在でありたい。