雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

文科省キャリアは教員経験を必須化しては

小学校高学年での英語の必修化なんて、全く馬鹿げた机上の空論だ。立案した連中は、英語の苦手な教師から英語を学ぶ子供の辛さを分かっているのだろうか。これできっと日本人の英語能力は平均すれば今以上に低下するのではないか。

文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。愚かなことである。
(略)
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。

僕は英語が理由で教育課程をドロップアウトした人間だ。本当に英語だけが理由で、中学で留年し、高校で中退し、大学でも留年した。けれども10代の頃から頻繁に海外出張して記事も書いているし、今は外資系企業に勤務して日常的に英語を使っている。
僕が中学時代に英語を嫌いになったのは、英語を知らない先生から教条的な英語教育を受けたからだ。中高一貫進学校で、よくできる英語の先生は高校の後半に固めていた。そのせいで中学で教わる先生の質は著しく低かった。困ったことに交換留学生に英語の通じないレベルである。
まあ当時の先生のことを責めても詮無い。問題は先生のスキルや負担を全く考えず、全国一律でいろんなことをやろうとすることだ。そんなに英語に長けた人材を育てたければ、1〜2割の学校で、ちゃんと英語のできる先生を割り当てて語学堪能な人材を育てれば宜しい。日本でそんなに頻繁に英語を使う仕事など限られているし、機械翻訳が日進月歩で進歩しているから、英語で考えて喧嘩すべき状況でなければ、卓越した英語能力など求められないはずだ。無理にトップダウンで英語を必須化しても、先生の負担が増して、慣れない授業で僕のような英語嫌いを増やすだけではないか。
わたしも仕事で外人エグゼクティブと英語で議論する機会はあるが、さして語学力などハンディにならない。話の中身の方がずっと重要だ。ちゃんと考え抜いて適切な情報を持っていれば、大事なことは簡潔な表現で説明できるのである。ややこしい表現が必要なのは、逃げたり誤魔化したりする時だ。僕が英語力のなさを嘆くのも、相手が逃げようとした途端に相手の言ってることを理解できず、反論できなくなってしまうことである。それはそれで悔しいが、小学校で英語を勉強していれば反撃できたとは別に思わない。
僕は今だって英語が苦手だが逃げはしなかった。知的好奇心を満たすために必要だから、予備校時代からBYTEやWIREDは読んでいたし、洋書の参考書も少なからず買った。誘われれば学生時代に仕事で海外に行ったし、記者として外人エグゼクティブを取材したし、転職で外資に行った。苦手でも用事があれば、どうにかなるものである。本当に檻から出るために必要なのは、語学力ではなく胆力ではないか。しばしば英語ができると得をするという話もあるが、それはジュケンエイゴはできても英語から逃げ出す奴ばかりだからであって、仮に語学力が希少価値じゃなくなれば自ずとコモディティ化するのである。みんなに英語を教えれば、今英語が堪能な連中と同じような意味で、誰もが幸せになるという話では全くない。
いずれにしても今の教育では、自分で調べ、自分の頭で考え、それを簡潔に伝えるということも充分にできていないのだから、そちらをどうにかする方が先である。だいたい、競争を通じる選別でやってきた我が国の教育は、少子化時代にどう質を担保するか、まだ答えを出せていないではないか。そうでなくても忙しい小学校教員に英語教育まで押し付けて、小学生のうちから英語嫌いを増やして何をしたいのだか。教育現場を分かっていれば、そんな頭でっかちの与太話は出てこないはずだ。
確かに人間の脳の成長については感受性期仮説というのがあって、小さなうちに英語を浴びるように聞いていれば発音もちゃんと聞き分けられるし、深く考えずに理解できるようになるらしい。しかしながら、そこを狙うなら小学校高学年では手遅れである。幼稚園あたりからみっちり英語漬けに仕込めばよろしい。ちゃんとネイティヴに近い発音で話し、英語コンプレックスのない先生に囲まれた環境で。けれども日本全国津々浦々でそんな教育は無理なのであって、どこかで集中して環境を整えるしかないのではないか。
世間知らずの大学の先生が思いついたであろうことは随分と傍迷惑だが、現場感覚を吸い上げて、そういった馬鹿げた提案を止めることこそ役人の仕事ではないか。これ以上、役に立たないジュケンエイゴを蔓延させて、いったい何をしたいのだろうか。