雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

僕の思春期がもし2008年だったら...

もう15年も前なんだねー、俺の思春期とか。来月早々に31歳だよ、31歳。30代は大人げなく始まって早々に挫折した。なんか時間が経つのが早すぎて、ああ俺ずいぶんと歳食ったなぁって感じだ。15年も経つと時代って大いに変わっていて、ああ俺がいまあの歳だったら、どんな人生を送っているんだろうとか考える。

雫は設定上、僕の1学年上なので、もし実際にいれば今年29歳になる計算です。しかし、もしも現代が舞台だったら……。
(略)
まず確信を持って言えるのは、
雫はブログを持っているね、絶対。
小説家を目指す中学生がまず何をするかって、やっぱりブログに自分の作品をアップするんじゃないでしょうか。

14〜18歳の頃って自分の技術者としての可能性に見切りをつけて、学校新聞の電子化に没頭した。富士通ショールームで業務用OASYSを借りてDTP製版し、つくった新聞は見本としてショールームに置いていたら営業資料として使われていたらしい。「お客様から同じように組版できないといわれたんだけど、DTPセミナーをやらないか」と頼まれたこともある。中学生だったし、人前で話すのは苦手だったから断わったけどね。
政治に興味を持つ一方で政治団体とは距離を置いていたが、日本中の高校新聞部を繋ぐ団体の運営に噛み、色々と政治性を持つ関係者はいたし、異性とも専らそこで知り合った。右翼の行政委員会*1と左翼の新聞部で仲が悪く、予算を減らされたことに怒って予算策定プロセスの不公正さを追求する委員会を組織して壇上で先輩を謝罪させたり、コップの中の嵐は諸々あった。
中3の初デートで2つ年上の文化系女子から『自叙伝 (1948年) (改造選書)』の復刻をプレゼントされて、彼女が高校を中退して新聞社に飛び込んだこととか彼女のアナーキズムの影響を受けて自分も勉強を放り出して留年し、けれども彼女は先輩と同棲をはじめ。新聞に没頭しつつ、NHKの討論番組に出たり学校に内緒でドムドムでアルバイトし、さっぱり勉強しなかったから高1でも留年が決まって学校を辞めた。
大検予備校では牧野剛がゼミを開き、よく鈴木邦男塩見孝也が出入りしていた。高校の頃に憧れたサブカルの世界をリアルで触れたのは楽しかったが、次第に学生運動とかに興味を持ったって時代と噛み合ってないなと感じた。そんな浪人中にインターネット革命と出会い、忘れもしない1995年の夏からは、駒場や早稲田界隈ではなく、専ら秋葉原で遊んで人脈を拡げた。
大学が決まったころ米国で通信品位法闘争があって、戦後間もない時代を知る新聞教育界の大御所たち相手に米国ネット業界で起こっている言論の自由のための最新の闘いを発表したんだが、朝鮮戦争による逆コースで学校新聞への検閲が厳しくなったことを怒っていた彼らが、いま海の向こうでYahoo!のホームページが真っ黒になっていることには興味を持たないのかと落胆した。その後の酒席で僕が桐生悠々の生き方に憧れているといったら大いに可愛がられた。あぁ僕は自分の時代を自分で考えて生きねばならないと痛感した。
中学時代、最初は技術者になるつもりだったんだ。物理部で自分より優秀な後輩達をみて、僕はプログラミングや回路設計ではなく、利活用を極めようと新聞部の活動にコミットした。親父がSEだったから、中学に入った頃から月刊ASCIIや日経コンピュータを読んでて、90年代初頭の流行りはオープンシステムとかビジネス・プロセス・リエンジニアリングだった。憧れのUNIXワークステーションMacintoshはお高いけれど、BPRなら真似できそうな気がした。
当時は手書きの原稿用紙で印刷所に入稿して組版、校正、発行と概ね3週間、15〜20万円のコストを、3年後には同等の品質で最短25時間・5万円まで縮めた。余裕をみて1週間は欲しいけど、事前に準備すれば3日で出せるようにしたのだ。よく放課後は印刷所に入り浸って茶飲み話をして、活版と写植、凸版・オフセット・ダイレクトとか様々な印刷技術を覚え、オフセット印刷のフィルム業者が出入りする時間とか、ワークフローと納期の関係とか頭に叩き込んだ。当時はSuper ASCIIが最新のDTP動向を取り上げていたので、それを勉強して印刷屋の社長にレクチャーしたら感謝された。
もともと裏方に徹するつもりで記事を書く気はなかった。ただ2号目のワープロ新聞として体育祭特集号を出す時、連休はじめの体育祭を連休明け早々の新聞で報じるには自分で記事を書かざるを得なくなった。文章を書くのはとても苦手だったから、過去30年分の新聞を縮刷版で読んで書き方を頭に叩き込んだ。けれども体育祭の日は朝から小雨、翌日も雨だと天気予報でいっていたし小雨で中止はなかろうと、先輩達が蹶起して放送室を占拠して校門を封鎖して強引に体育祭を開いた。
体育祭が始まってからの4色の攻守より、如何にして体育祭が開かれたかの経緯こそ読者の関心事であることは明らかだったから、トップ記事の2/3を割いて体育祭が如何にして開かれたかのドキュメンタリーを書いた。何も参考にならなかったから、自分で考えて文章にするしかなかった。これはすごく受けたし、発行前にゲラをクラスで回したら、ボロボロになるくらい、みんな熱心に読んでくれた。自分でも読んでもらえる記事を書けるかも知れないと思うようになったのはそれからだ。
前振りがすごく長くなってしまったけれど、こんな僕がインターネットのある現代に産まれていたら、どうなっていただろうか。たぶん非コミュな僕は学校新聞にコミットするよりはブログに青臭い意見を書いていただろう。お金のかかる印刷になんて興味を持たなかったから、仕事の進め方をどう合理化するか真剣に考える機会もなかっただろう。机上の論争には首を突っ込んだろうけれど、逃げ場のない喧嘩に巻き込まれることはなかっただろう。
僕らの思春期って文化が停滞していて、ちょっと政治的意識が強いと学生運動に憧れ、浅田彰とか栗本真一郎といったニューアカを囓り、原典指向で大塚久雄あたりから読み返し、上野千鶴子とかフェミニズムに興味を持ち、村上春樹村上龍は一通り読んだ。いま考えると恥ずかしい話だが、免疫のない中学生だと五島勉とか矢追純一の本を読んでも、それっぽく感じてしまうこともある。まだ終末論がもうちょっと意識されていた時代だ。今どきオマセな高校生って何を読んでいるんだろう。やっぱり梅田望夫とか佐々木俊尚かな。僕が多感な時期にあれを読んだら、すごく影響を受けただろう。
自分を振り返って、情報の非対称性と不便の中で、すごく遠回りばかりしているのだけれども、やっぱり考えて、その遠回りの中で世智のようなことを身につけ、たくさんの人々の魅力的な背中を見てきた気がする。そして胸を借りて議論する過程で必然、超えられない壁というか彼らの限界というか、やっぱり僕の時代のことは僕がどうにかしなきゃと幻滅しつつ、彼らが何を大事に世界を組み立て、どこをどうバランスさせているのかを、その矛盾や限界を通じて学んでいたのではないだろうか。僕は特に怠け者だったから、逃げられる社会矛盾からは逃げていたし、逃げられない現実とか人間関係とか物理的制約を通じて、現実と直面せざるを得ない中で、別に学びたいとも思っていない諸々の社会を学んだ。
昔は面と向かってひとと関わらないという選択肢が今より少なかったのではないか。特定の事柄にしか関心のない頭でっかちの非コミュであっても、自分の知的好奇心を満足させるにはコミュニティに関与せざるを得ず、様々な紛争と邂逅に巻き込まれた。今はググれば様々な知識に触れることができるし、mixiとか2ちゃんねるで、それっぽい専門的な議論に首を突っ込むこともできる。それは非常に便利だし人々をエンパワーし得るけれども、逆にそうやって様々な選択肢が生まれたことで、その時点で本意ではないコミュニケーション・スキルの獲得を阻害してはいないだろうか。即ちコミュニケーション手段の限られていた時代の方が、見知らぬ相手や立場の違う相手とのコミュニケーション能力を磨かねばならない局面が、状況に埋め込まれていたのではないかということだ。
例えば毎晩のように彼女に電話をかけることひとつ取っても、昔は親が取った電話を彼女に取り次いで貰う必要があって、見知らぬ大人とひとことふたこと話せねばならなかったし、電話が終わった後に彼女が母親から「彼って中学生。なんかオマセね」とかいわれてしまう訳だ。けれどもそういった不作為のコミュニケーションから、自分は世界を紡ぎ空気を読む術を学んだ気がする。昨今、産業界がコミュニケーション・スキルを学生達に求めるようになった背景に、そういったコミュニケーションを経なくとも用を足せる社会を創ってしまったことがないだろうか。
そう考えたとき『耳をすませば [DVD]』で月島雫が携帯電話にもインターネットにも触れていなかったからこそ、様々な邂逅と摩擦と触発があったのであって、それらの洗練された道具があった時、彼女の世界が広がる機会がそれ以前よりも増えただろうか、という問いは意外と重要である気がする。即ちITは可能性の幅を著しく拡げる一方で、予期せぬ社会化の機会を著しく減らしている側面がないだろうか、とも思うのである。それは僕が多感な時期をネット抜きに過ごしたからで、それが当たり前の時代の子たちの中から這い上がったエリートたちは、そもそも僕らの時代には思いも寄らなかった高速道路を駆け上がって、卓越した結果を出すのだろう。それはそれで楽しみではある。

*1:普通の高校でいう生徒会執行部。わたしのいた学校では二権分立で行政委員会と生徒議会に分かれていた。生徒裁判所をつくるという話は流石に通らなかったらしい。