問題を起こすのは利用者であって媒介する仕掛けではない
出会い系とか学校裏サイトでのいじめとか掲示板での中傷とか、突き詰めれば愚かしき人と人との問題でしかないが、ハイテクの衣を纏った媒介者が介在することで、その媒介者さえ再設計すれば犯罪が抑えられユートピアが現出するという幻想を誘発してしまう。それは引いた視点でみれば不思議だが無理のないことではある。その偶有的な関係性に限れば媒介者なくして成り立たなかったとはいえるのだから。けれども人間は限られた可能性の中で別のかたちで似たような愚かしい行いをするのだろう。
いや確かに出会い系とか掲示板で不幸な目に遭っているひとはいるんだろうけど、総じて犯罪件数なり被害件数が増えている訳ではないことを、どう解釈するのがいいのか悩む。で、考えてみると結局のところ、人間は今も昔も1日24時間を生きているし、何かを選んで生きているというのは、それが数百分の一であろうとも、数百万分の一であろうとも、結局ひとつの人生を選んでいる点で同じだということに帰結するのではないか。
例えばMixiで千数百万分の誰かと出会うことも、新宿の雑踏で数万分の誰かと出会うことも、そこでのリスクには大差なくて、大概は問題ないし、とはいえ犯罪が起きるときは起きるのだろう。ある確率で悪意ある個人というのはいて、それぞれの悪意ある個人が誰と出会うかの分母は増えるが確率は減って、犯罪そのものの実数には大差がない、ということが起こっているのではないだろうか。
繰り返しゲームが働かない囚人のジレンマという点では、都市の雑踏もネットの匿名空間も大差ない。逆に村社会や実名志向のネットコミュニティでは、繰り返しゲームが働いて犯罪を抑止する可能性がある。微妙に難しいのはMixiのようなSNSの多くで、長期間単一アカウント保持者間の繰り返しゲームと、捨てアカウントで旅の恥はかき捨てという二重構造があるらしいことで、とあるマイミクが匿名サブアカを取ってログインしてみるとMixiが全く別の危険な空間にみえた、と述懐していたことを思い出す。リスクとはそういうゲームのルールに対するギャップ周辺で顕在化するのかも知れない。その点で最初から殺伐とした2chよりも、一見安全であるかにみえるSNSこそ危険となり得る。
技術革新を通じて安全なサービスを提供しようという野望を抱きがちではあるし、その努力が無駄とは限らない。けれども凝った仕組みほど安全性を裏打ちする前提に依存するが故に裏をかかれるリスクがあるとすれば、現実的に安全なシステムとは媒介者が暗黙のうちに環境管理的な安全性を保障するのではなく、場のゲームのルールに対する参加者の認知格差を減らしつつリスクを可視化したシンプルかつフラットな仕組みで、利用を通じて安全に対する配慮を喚起するよう周到に設計された仕掛けではないか。分かりやすい危険を技術で安直に捩じ伏せ、利用者に無防備な振る舞いを促す仕掛けこそ、意外と危ないのだ。