雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

残虐なコンテンツを子どもにみせるべきか

つい先日、仕事で有害コンテンツ規制推進派の女性議員にお会いしたら、話の途中でいきなり「わたしたちはこういうホームページを規制したいんですよ」って、残虐な画像とかを掲載したいくつかのホームページのプリントアウトを見せられた。ホントにみせるとは!って辟易したが。紙とか結構めくれていたんで、かなりの人に見せたんだろう。あれをみたら規制すべきだという意見に傾く方も少なくないのかも知れない。僕も不覚ながら動揺してしまい、ペースが乱れてうまく話せなくなった。ありゃあ立派な交渉術だよな。
まったく情けない話だが、あれからしばらく子供たちに残虐なホームページをみせるのは良くないことだろうか、とか改めて悶々と考えていたら中学時代の授業を思い出した。いま振り返ると病んでいる気もするが、中3の道徳の授業で先生が『死体は語る (文春文庫)』を使い、著者の上野正彦先生を招いて講演会まで開いた。法医学の講演だからグロい死体写真のスライドが次々と出てくる。確か午前中の授業だったんで昼飯を食べられなくなる同級生が続出した。ひどい話である。まぁ僕はそこまで過敏じゃなかったし話は面白かった。
ああいった写真をみて感じるのは嫌悪感で、それは普通の感覚じゃないかな。世の中は広いから、何百人に一人かは、ああいう写真を見て性的に興奮するとか、不思議な反応を示すひともいるのかも知れない。けれどもそれは先天的だろうし、あれをみて残虐なる精神が涵養されるかといえばノーだろう。刺激的な画像や映像は、時にひとの心にトラウマを残すが、その刻印が倫理の土台となっている場合もあるのではないか。例えば首つり自殺や飛びこみ自殺の無惨な姿をみたことがあれば、自殺に対して慎重となるのではないだろうか。
それは教育だから親なり教育者が注意深くやるべきであって、子どもが自由にネットで残虐コンテンツにアクセスでき、病みつきになっては困るという意見は分かる。親が子どもにそれをみせたくない場合に、技術的保護手段を提供することは重要だ。けれども国が違法ではないコンテンツに対し、あれはok、こっちは駄目、みたいな裁定を下すのはいただけない。いまの自民党案では内閣府の下に独立行政委員会として有害コンテンツの判断を行う機関をつくることになっているが、いちどつくった役所の組織は必ず肥大化する。それを正当化するために業務範囲を広げようとするし、いずれ北欧をモデルに大人に対してもフィルタリングしようなんて話さえ出るかも知れない。
子どもを有害コンテンツから隔離するほど、人生で取り返しのつく間に心を揺さぶる様々な陥穽に対しても盲目となり、簡単にカルトに勧誘されたりしないのだろうか。僕はグロいコンテンツに正直動揺したし、ああいったものを自分の息子たちが今の段階でみれてしまっては問題があると思うけれども、業界で一丸となって冷静に、フィルタリングよりも有効な手法などについて考える必要があるのではないか。単に国で基準を決めて子供たちを残虐なコンテンツから隔離すれば済む話ではなく、世の中にそういう現実もあるのだということを踏まえつつ、教育効果を考えながら保護者などの意思に基づいてゾーニングできる柔軟な枠組みを考える必要があるだろう。