雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

遥かなる自由とわたし

本書は大塚久雄から、フロム、全共闘尾崎豊、オウム、エヴァンゲリオンを経てリチャード・フロリダまで一気に駆け抜ける自由論の戦後史。昨晩はSDの元担当編集と飲んでいて、最近は新書が乱発気味だけれども、時折読ませる本があるねという話をしていたら、すぐに橋本努氏の名前が出てきて驚いた。この手のって「そうそう、そうなんだよ」みたいな共感がないと面白くないんだが、図らずも僕は大塚久雄から全共闘くらいまでは何となく齧っていて、オウムとかエヴァンゲリオンは同時代として楽しんだ。最近のギークがスーツを見下している云々といった記述とかWeb 2.0に対する過大評価には違和感を覚えたが、「自らの能力を最高度に実現せよ」という時代の要請と「潜在能力を開花させれば生計が成り立つなどと勘違いするな」という時代の現実の狭間で足掻きながら「創造としての自由」を模索することになるのだろう。
中学時代に背伸びしてプロ倫を読んだけど、よく分からないんだよねと高校新聞の先輩に相談した時、勧められたのが『社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)』とか『社会科学における人間 (岩波新書)』だった。予備校に入って『自由からの逃走 新版』からフロムにはまって、浪人時代の夏休みに本屋で買えるものは全て読んだ。予備校では牧野剛がよく鈴木邦男とか塩見孝也を招いて、あの時代の話をいろいろしてくれた。他の講師たちも、少なからずあの時代のトラウマを抱えているように見受けられた。
18の春に僕は浪人が決まって遠距離恋愛だった元カノが早稲田に受かって上京してくるというので、一人暮らしのための家電を物色する手伝いをしたとき、確か新宿東口のヨドバシかどこかのテレビで地下鉄サリン事件の報道をみた。ホロコースト特集で廃刊になったマルコポーロサリンとオウムの関係を早くから取り上げていたから、ひょっとしてオウムかなぁ、なんて話をしたかも知れない。
オウムの元幹部とは大学時代、ロフトプラスワンのイベントで飲んだことがある。話していると非常に真面目かつバランスがとれていて、あぁ組織で上の方にいくひとというのは、どんなところでも人当たりがいいもんだなぁ、という印象を持った。けれども酔った勢いで「麻原からサリンを撒けと命令されたら、撒きましたか」と聞いて「撒きましたね」といわれた時は、このひとは誠実だが越えられない一線があるなと感じた。
入信の動機を尋ねたら「とても自信を失っていた時に、麻原だけが彼を受け止めてくれたから」といっていた。入信の動機を聞いても自分を相対化できているのに、信仰とか帰依は絶対なんだな、と何だか腑に落ちた。彼は当時オウムを脱会していたが麻原には個人的に帰依していると公言していた。脱会していてもオウムにいた経歴がバレる度に職を追われ、数か月毎に職も住所も転々としているという。こうやって世間が受け入れないから社会復帰が進まないんだ、と憤っていたら、のちに風の噂で彼が再入信したと聞き、さもありなんと暗澹たる気持ちにさせられた。
僕が背中をみてきた自由を追求する人々は、誰もが翳りを抱えていた。率直にそれが世界よりも実存の問題であることを認めてくれるひともいたし、自尊心を守るために堂々巡りの議論をするひともいるけれども、誰も広い世界なんてみていやしないんだ、否、そもそも世界ってどこかにあるのだろうか。
学校を出てしまえば、かなりの社会的自由は手に入る。けれどもそれは経済的自由ではない。多くの人が日々の糧を得るために、実際のところ社会的な自由まで簡単に手放してしまう。自分がどう自由になるかと、世界をどう自由にしていくか、如何に豊かになるかと、如何に社会的柵から解き放たれるか、これらは時に競合する命題ではある。疎外されているうちは悩まずに済むが、社会に組み込まれた途端、自分自身の意志の問題として、社会的にも内面的にも問われるのである。
本書は時代時代の理想を投影して、どのように自由論が変遷していったかを論じている。それは非常に興味深い社会史ではあるし、世代間格差を埋めていく上での補助線ともなり得る。しかし倫理としての自由という命題は学問的に枯れているのだろうか、また規律訓練型権力の議論は随所にみられたが、例えば環境管理型権力と自由との関係については、充分に議論が尽くされていないようにもみえる。
最近Winny帯域制御や有害コンテンツ規制などの議論に絡んで、環境管理型権力の技術的可能性そのものが、為政者や国民に誤った全能感を与えていないだろうか、それらが民主主義の過程を通じて自由の積極的放棄に繋がらないだろうか、と危惧している。そういった意味で東浩紀『情報自由論』は非常に先駆的な問題提起だったが、あれから議論の深まらないまま現実がどんどん先に進んでいる。
自由論として個々人の自己実現をどう方向づけていくかという議論も重要だけれども、それとは別に如何にして自由な社会に正当性を与え、政治的に維持していくかという別の議論もあるのではないだろうか。不快な刺激を環境管理によって取り除こうという志向そのものが、現代の自由に対する重大な脅威となっているようにもみえる中で、本書はいささか楽観的に過ぎるようにもみえる。