雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

日本が神の国じゃなくなりつつあるってことか

これはたぶん裁判官の感覚として特別な判断はしていない。だって交通事故だって過失でも責任とるでしょ。これまでなら検察が事情を斟酌して立件しなかったんだろうし、それはそれで不透明なのだから本来なら免責する制度をつくるべきだ。ひどい話ではあるが、いい意味でも悪い意味でも、世の中に対する想像力がなくなってきているよね。

法衣着てる人のトンデモ判決で産科医療が危機的状態なんですが、航空管制も同じようにするんじゃ、司法のありかたそのものに疑問符出されてもおかしくないんですが。司法がせっせと社会崩壊させてどうするっていうの。

日本って長らく業者行政でやってきて、官民挙げて仕事を恙なく回す為には正義を平気で曲げていた訳ですよ。セクハラが発覚しても、加害者はお咎めなしで被害者の女の子の方を辞めさせたり。技術が社会的に評価され始めた途端、特許の審査官がひとりからふたりになって、差し止め請求権を行使しない覚え書きを交わしてくれれば特許を通してあげましょうと裏ネゴを持ちかけてきたり。どう考えても正しくないんだけど、その方が世の中としてうまく回ると世間では考えられていたし。
最近まであからさまに法とは別のところで物事が決着することが多かった。いまでもそういう世界は残っているんだろうし、中国なんかそういう世界ばかりなんだろうし、明治から足掛け百数十年かけて繕った近代法治国家としての建前と、もっと長い歴史と伝統を持つであろう権威的秩序と、どちらが正しいかはよく分からない。迅速な制度設計を図る回路を持たないまま、サブスタンスとしても法治国家となりつつあるとしたら、それがどういう意味を持つのか考えることは興味深い。
それが真の近代化へ向けた痛みであれば良いが、単に経済の成熟とか諸要因から矛盾の先送りが難しくなり、あちこちで共犯関係が破綻し、世間なり世の中という共同幻想が失われ、剥ぎ出しの制度が建前と本音を使い分けることでバランスしてきた社会に牙を剥いているのかも知れない。どちらにしても覆水盆に返らず、裁判官に事情を斟酌しろといっても無茶で、真相究明のためには必要とか理由をつけて免責制度をつくるのが筋だろう。ただ仮に被害者に処罰感情があるとそういった制度を民主主義のプロセスで通すのは骨だよね、という事情も産科医問題と似ている。裁判官も時代の空気を読んでいて、そういう時代だということは、そういう制度はきっと国民から受け入れられないよね、というところでデッドロックしてしまう。
以前、当時の森首相が神主の集まりで神の国云々といったのが問題になったことがあって、その時は政治家だもの、それくらいのリップサービスくらい普通でしょう、と軽く違和感を感じたのだが、コンテクストを割り引かずに言葉尻を捉える風潮が喧しい。小泉劇場政治以降の問題と捉える人もあれば、マスコミ主犯説を唱える人もあるが、実のところ良く分からない。こういう時代の空気みたいなものは、様々な人々がそれぞれに空気に押し流されていくんだろうとも感じる。そこにあるのは悪くいえば不寛容や形式主義であり、良くいえば遵法精神なのだろう。
かつて平気で法を捩じ曲げてきた人々は、法よりも大事な何かを背負ってそういう判断をしていたのだろうし、それは極めて日本的な親方日の丸的な権威主義共依存という気がするのだが、そういった意味で1990年代末から2000年代初頭のどこかで、日本の統治機構が暗黙のうちに前提とした微温的な公共観は失われたのだろうか。それは真の近代化にとって重要な一歩かも知れないが、これまで日本社会が巧みに避けてきたオーバーヘッドを直に被ることになるだろう。それはどこかで必要な過程ではあるが、乗り越えた先に輝かしき未来があるかというと疑わしい。
裁判所や世論の杓子定規を嘆いても仕方なく、時間をかけて制度を整えていくしかないのだろう。その前に産科医療や航空管制、似たような諸々な理不尽に責任が重く仕事がハードな領域が崩壊するリスクもあるが、壊れてみないことには分からないもの、変わらない空気もあるのだろう。問題はこれが供給過少を招くとすると、いちど壊れてしまうと簡単には元に戻らないことだが。
だからといって、やるべきは迅速な制度構築や適正な資源配分であって、形式主義を振りかざす行政や法曹に事情の斟酌を求めるのは筋違いというものだ。もはや誰も、理屈や法律を上書きしてまで彼らなりの公共観を周囲に押し付けられる時代ではないのだから。