雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

マスコミの振りまく仮想世論に振り回されるセンセイ方が、仮想現実に振り回される子どもたちを嗤えるのか

今日の教育再生会議で「小中学生に携帯持たせるな」という内容が報告書に盛り込まれることが決まったという。政治宣言や携帯電話事業者に対するフィルタリングサービス提供の義務化に止まるようなら、余計なお世話ではあるが振り上げた拳の下ろしどころとしては悪くない。しかし万一未成年に対するフィルタリングサービス利用の義務化や、小中学生による携帯電話利用の違法化に踏み込むことがあれば天下の愚策だ。
僕自身が3人の子持ちとして、いつ息子たちに携帯電話を持たせるか、未熟で弊害の多い携帯フィルタリングを有効にすべきかは悩む。娘さんをお持ちの方は更に悩ましいことだろう。携帯電話を持たせれば月額料金もかかるのだし、保護者だって利便性と危険性とを天秤にかけて、考えた上で携帯電話を子どもに持たせているはずだ。
個々の保護者の判断が正しいかは本人にも分からないだろうが、仮に首相や教育再生会議の面々が個々の保護者よりも適切な判断ができると考えているとすれば随分と傲慢な話ではないか。保護者は子どもの行く末に対してそれなりの責任を負うが、政治家であれ官僚であれ有識者であれ、何ら個々の児童に対して責任を負える立場にはない。
年寄りに限らず新たな技術に対するアレルギーはいつの時代にもある。「本を読むと馬鹿になる」「学校に通うと馬鹿になる」「テレビをみると馬鹿になる」「ゲームをすると馬鹿になる」「携帯を使わせると馬鹿になる」意外とそれらは一理あるのだろう。限られた時間や能力の中で、我々は常に何かを得ると同時に失っているし、みんなで退化すれば怖くないからだ。
わたしだって多感な時期に太宰治を読んで情死に憧れたし、学校に通って言われた通りに生きていれば人生どうにかなると勘違いしてしまった馬鹿を少なからずみたし、4月下旬にワイドショーの時間になると「硫化水素」で検索して当ブログのアクセスを押し上げる馬鹿が山ほどいたことに失笑したし、ゲームだけでなく虫採りや喧嘩もしなきゃ常識は身に付かないと思うし、ケータイの掲示板だのプロフサイトとかみていると心配になることもある。
では子どもから本を取り上げるべきか、学校に通わせなきゃよかったのか、テレビの放送内容を厳しく規制すべきか、親が子どもからゲームを 携帯を取り上げるべきかは別の問題だ。本来ゼロイチではなくバランスであって、本を読むだけでなく体も動かしましょう、学校に通いつつ世の中に成績だけじゃなく様々な価値尺度があることを実感させましょう、テレビやゲームをみる時間は絞りましょう、子どもが携帯をどう使っているか目配せしましょうというのがバランスを取れた議論だ。
極端な事件報道にヒステリックな反応を示し、健全な子どもや保護者まで不便を被ることを拙速に決めてしまうのは如何なものか。ノイジーマイノリティの醸成する世論や、扇情的なマスコミ報道に突き動かされて、市井の現実や統計的な事実には目が届かず極端な議論に流されるセンセイ方が、果たして仮想世界に毒されている子ども達を嗤えるのだろうか。彼らが子どもたちからケータイを取り上げようとしている動きに対し、我々は彼らから何を取り上げることができるのだろうか。

政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)は17日、都内のホテルで会合を開き、子供を有害情報から守るため「小中学生に携帯電話を持たせるべきではない」とする内容を、6月にまとめる第1次報告に盛りこむことで一致した。