雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

異説のひと

中学で最初に会った定年間近な日本史の先生は、初回授業で歴代天皇表を配り、旧仮名旧漢字の板書で授業毎に天皇の名前から始める授業をしてた。12月8日には本来講義する内容をすっ飛ばして真珠湾攻撃について語り始め「歴史の教科書は大東亞戰爭を悪く書くけれど、あの時代に少年は奇襲成功の報をラジオで聞いて、とてもスカッとしたんだ」と振り返り、ハルノートとかABCD包囲網のことをアツく語った。僕は右翼ではないが、ああいう主義主張のあるひとの話は面白いし、鵜呑みにした訳じゃないけど、子供心に教科書に書かれていないことを聞くと世界が少し広がった気がした。

神奈川県藤沢市石川の市立善行中学校の20代の男性教諭が5月下旬の授業中、米同時多発テロについて「9・11テロは米国の自作自演」と発言していたことが分かった。生徒から聞いた関係者が市教委などに抗議し、同中は今月1日、PTA役員らを集めて謝罪した。

あれも誰かが抗議すれば問題になったのかなぁ。否、みんな知っていたし、誰も抗議しなかったし、私立ってそういう自由度はあるのだろう。自分がそうだったから思う訳だけれど、中学くらいから主義主張とか似非科学とか諸々にちっとは引っかかって、後で矛盾に気付いたり、変節を目の当たりにしたり、予言が外れて免疫をつけるくらいが丁度いいんじゃないかな。矛盾する諸々の主張の中で悩むような時期があって普通なのであって、いろいろ抑圧して矛盾をみせないから、カルトとかに騙されやすい奴が育っちゃうと思うんだよね。
件の教師がベンジャミン・フルフォードの本とかを読んで信じちゃってそれを生徒にしゃべって、学校としてまずいだろ、というのは建前として理解はできる。けれども妙な信念とか思い込みを持った先生と接するのって実際のところ珍しくないし、それはそれで構わないというアフォーダンスがあっていい気もする。逆に、そういったあそびがないと、本当は何らか距離を取らなきゃならない問題に対して、無防備になってしまう気もするんだ。9.11が例として適切だったかは疑問だし、せめてそういうマイナーな主張もあって、先生はそれを信じている、くらいの言い方はすべきだったろうけど。
そうやって先生が自分の信念で話せないような環境に宙づりにして、遠慮がちに生徒と接した時、そういうのって生徒に伝わるものだし、何か隠し事をされているように思うだろう。実際のところタブーって諸々あるし何でも生徒に話せる訳じゃないけど、先生を萎縮させるデメリットもある。
できれば中学くらいから、大人だって騙されることがあること、世の中には様々な考え方があること、その中でメジャーなものとマイナーなものとあること、それぞれの先生が理由あって個人的にはそれぞれに偏った考えを持っていることとか、徐々に触れていった方がいいのではないか。そういうのって情報リテラシー教育の初歩かつ非常に重要な側面だし。
どうせネットにアクセスすれば子ども達は無数の異説や疑似科学に晒される訳で、それらをフィルタリングすることは猥褻・残虐情報と比べて問題が大きい。なかなか難しいけれど、矛盾した情報に晒されて、少し距離を置いて自分の立ち位置をつくるといった能力を育むには、ネット環境のことを考えても、内容がバラバラな大学教育の実情を考えても、たぶん大学からじゃ遅すぎる。