雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

誰が蟹工船を買っているのか

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)』くらい普通、高校時代に読んでるだろ、とか思うんだけど。高校時代に読んだ労働運動ものじゃ『我が心は石にあらず―高橋和巳コレクション〈8〉 (河出文庫)』とかが好きなんだけど、あれは研究所の妻子持ち理系中年インテリ正社員が組合活動で深い関係となったツンデレ女子社員との不倫に悩む話だから、ロスジェネ的には全く共感できないか。
しかし『蟹工船』とか『ロスジェネ』って誰が買ってるんだろう。もろガテン系なら読まないと思う訳ですよ。そこそこインテリで日常的に活字とか読むけど運悪く非正規雇用層に落ちてしまって、そこに社会矛盾を感じているインテリ非正規雇用層・ポスドクやら、僕のようにロスジェネで運悪ければそういう目に遭っていただろうなという問題意識を持っている層かな。

まさか非正規雇用の若者たちは『蟹工船』を読んで、共産主義に目覚め、革命を目ざそうとしているわけではないだろう。そういう意味では、小林が書いたイデオロギー的な意図はまったく「読解」されていない。

「民主文学」2月号で作家の浅尾大輔氏は、派遣で働く女性が「蟹工船」を読んだという実話を書いている。彼女の感想は、「私の仲間たちが続々と出てくる」というものだった。そして「斡旋屋」というのは自分が働く派遣会社なのか、と聞くのだ。浅尾氏は「そうだよ」と頷く。そんな状況を、彼は「現代の『蟹工船』に自分も乗船している(!)という自覚を獲得したのだ」と書いている。

昨日のサバイブSNSオフ会には知り合いが結構いってたみたい。モバゲータウンのコミュとかみていると、運送業とかコンビニとか、もろガテン系のコミュが山ほどあったりして、そういう意味じゃサバイブSNSの方がモバゲーより平均年収高いんじゃないの?みたいな。秋葉原で暴れた加藤も高校までトップクラスの進学校で、自分のキャリアに過剰な意味付けをして自滅したところがある。生きる上で困っていないのに「自分の人生は、もう駄目だ」的な強迫観念に囚われるのって、母親が息子に対して「勉強しないと大変なことになる」って脅している原体験が尾を引いているところがある。あれは一種の呪いなんだろうか。実際いちど堕落すると、もっと楽に生きる世界だってあるし。
だいたいコンビニじゃなく本屋の、それも総合雑誌の棚とかに立ち寄る層って、それなりに知的でしょ。だから蟹工船とかロスジェネが平積みになる現象というのは非正規雇用の拡大というよりも、非正規雇用層のインテリ化、或いはインテリの底が抜けたことを象徴しているんだろうね。いい学校を出ただけじゃ救われない、ということがマスメディアからみてキャッチーなのは、彼らがコトバと文脈を持っていて、社会階層としてはマスメディアから可視的なところにいたからで、それって世紀末に新卒採用抑制ではなく中高年失業ばかり注目されたことと似た構造がある。
結局のところ消費されるロスジェネ言論って、報われなかった優等生たちが呪いから解放されるために消費されるばかりで、実際の下層労働をどう救うかとは違った位相の運動として続きそうな予感がする。だから駄目だとか、彼らは本当の貧困を知らない!みたいな議論に持っていくつもりはない。むしろ太宰治が学生時代に共産党の細胞だったように、戦前の左翼運動の一部もそういった自意識過剰インテリの知的遊戯っぽい側面はあったし。
意味という病と過剰な自意識、社会に対する絶望的な意味付け、何となく前衛っぽいところとか、『蟹工船』ブームの背後にある政治的意図とか、プレカリアートみたいなコトバを紡ぐ雨宮処凛とかの感性が、ネオリベ的欺瞞に騙されかかっていたロスジェネ層の心を掴んだことは、知的遊戯あるいは政治的煽動としては時宜を得ているし、青筋立てて黴の生えた文学理論を持ち出す産経の中年オヤジの方がよっぽどKYだよなー、体制側サラリーマン記者も大変ですね御愁傷様としかいいようがない。
いまさら革命を目指すのも時代錯誤だが、派遣業法の規制強化や非正規雇用層に対する職業訓練の拡充、最低賃金の値上げといった各論ばかりでも地味なので、動員力を強化して社会的影響力を高めるには、もうちょっとイデオロギー的な出口戦略も必要ではあるんだよね。そういう意味でベーシックインカム論って衒学的にはひとつの方向性ではあるんだけれども、少しマクロ経済論的に検討すると筋が悪い。例えば欧米で進んでいる雇用差別規制を敷衍して、新卒一括採用を廃止に追い込むといった戦略は考えられないかな。ノリも大事だけど、もうちょっと理屈も必要だよね、たぶん。