文化とCGMの陥穽、ブログエントリの歴史性
休日の時間を持て余していると、ついPCへ向かってマイミクの日記やらtwitterやらRSSリーダーの未読エントリやらホッテントリを読み終え、いま読むべきものはないかと不機嫌になり。平日は仕事メール、個人メールと並行して、もっと数の多いエントリを消化しているのだから土日ともなればそんなものだろう。けれど時々、文藝春秋とか中央公論を開き、司馬遼太郎とかを読むと、こっちの方がずっと有意義だよなぁと嘆息。おやじっぽいが。
ホッテントリ的馴れ合いって明らかにジャンルは違うけど、何かこうバラエティの延長という気がする。話題は時に真面目でも、結局は空気を読み合いながらの即興で、島国の片隅にあるはてな村の井戸端に閉じている。ここはこれでいいんだろうし、裾野を広げたってNewsingみたく芸能ゴシップみたいなエントリが増えるのも御免だし。できれば緩やかに繋がって、自分と近い関心領域のエントリを推奨されるといいんだろうか。否、この発想そのものがネットの泡宇宙化を加速している訳で。
新聞のコラムより終風の突っ込みとかの方がずっと面白いのに、文藝春秋とか司馬遼太郎の小説みたいな文章ってネットで読めるようにならないな、否、青空文庫はあるか、とか考えるに、新聞とブログが競合するのって共時的な短い文章だから当たり前で、通時的かつ長めの文章は相変わらず活字なんだろうな、と合点がいく。
総じてプロではなくアマチュアの文章を読む時間が増えた。それはアマチュアがプロ化したのではなくて、消費者の言語感覚がアマチュア寄りになったことで、プロの書く文章にも伝染し、或いはそれが市場から求められるようにもなった。これが新たな時代の潮流となるのか、文化の堕落なのか、いまひとつ判断できない。
アマチュアの文章が必ずしも拙い訳でもなく、品質管理されていないので人によっては読み難い、という程度のことだし。特に最近の一般紙は目黒の秋刀魚のように噛み砕いているうちに機微のないコラムが増え、タイムリーで読み応えのある文章はS/N比は悪いがネットでこそみつかる。ただネットじゃ長い文章は読まれないし、人気だけでみるとワイドショーのコメンテータのような、時宜を得た議題設定、分かりやすい割り切り、馴れ合いのような掛け合いばかり上位にくる。瞠目に値する文章は、ちと敷居が高く、ネット的な読み捨てに合わず、若干の注目しか集めないのだろう。
新宿ゴールデン街で飲んでいると書店の経営者や編集者と良く会う訳だが、何年もかけて数百部とか数千部の下の方しか売れない本を仕込む人々というのは独特のコダワリがあって、格式とは必ずしも部数ではなく業界での相互評価とか、非常に狭い世界からの賞賛、或いは独り善がりにもみえる時代意識とか責任感のような何かだ。そういう自己満足って非常に重要だし、時代を超えて流通する情報の断片を紡ぐことこそ、本をつくる醍醐味であるのかも知れない。
今日も4年前の日記エントリが急に注目エントリとして浮上しているが、いまは全く話題になっていなくとも、死後に注目されるブロガーが出たり、後からアルファブロガー(笑)みたいな扱いをされる奴も出てくるのかも知れない。たぶん、どうしても刹那的に受けを狙ってエントリを書いてしまうのは、僕らがブログを同時代としてしか見ていないからで、テクストが積み上がり、時代を超えて読まれるエントリが徐々に増えてくれば、もっと先を見てエントリを書く奴も増えてくるかも知れない。
ネットのアーカイブ性やロングテールは、本質的には同時代を超えた言論に長命や新たな息吹を与えるはずだ。ブログをホストしている会社の多くが図書館に眠っている本のように何十年、何百年と続くのか、いまひとつ確信を持てないけれど、遠からずネット上の言説と、歴史の保存について議論されることになる。グーグルのような検索企業が、遠からずクローリング蓄積を元に過去のWebコンテンツに対する全文検索を提供する公算は高いし、様々な論議を巻き起こすだろうけれど、文化的価値の保存という意味では必要で、オプトアウトを認めるかとか、歴史家に対しては、或いは公表から50年を超えたものは公表するかとか、ディープリンクや認証の向こうにあるコンテンツの保存をどうするかとか、様々な議論の末に方向がみえてくるのだろう。閑話休題。
どちらにしても、ブログに書かれる文章は良きにつけ悪きにつけ、新聞と同じように書いている文章と同じように、歴史性を強く意識せず、その日のうちに読まれることを念頭に書かれている。ただ、新聞と比べて保存性や検索性が高く、一人称で双方向の批判や幅広い裾野との競争に晒されている分、デスクを経ていない分の読み難さはあるものの、上澄み部分の言論としての質で上回りつつある。
これから一次取材が増え、歴史性を意識した書き手が増えてくると、更に面白い展開が出てくるだろうな、という期待がある。遠からず、物心ついた頃から新聞ではなくブログとネット上のマスメディアだけで情報を摂取する若手が、彼らが尊敬する記者ならぬ尊敬するブロガーをロールモデルに生きる時代が来るかも知れない。その時、引き続き共時的な内輪受けが続いているのか、それとも30年経っても色あせないエントリが少しずつ積み上がっているのか、怖いもの見たさも含めた興味がある。