それは年功序列と処女信仰と妬みの構造みたいな
企業どころか文系の大学教授で博士を持ってるの何割だよ?みたいな世界がある。外務省キャリアのトップノッチは学部中退とか。背景に新卒一括採用・年功序列で入社年次重視となってしまうことの弊害とか、新卒偏重の背景にある処女信仰ってか「異なる価値観に毒されない段階で組織に入って欲しい」って要望とか、上に立つ者が箔を持っていないと下にそういった権威を持った奴がいると目障りだって妬みの構造もありそうだ。文系学者で博士が出世の妨げとなることと、企業が博士を敬遠する背景って共通している。
日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。
だから職務給に切り替えてポスト毎のJob Descriptionを適切に設定すれば、高等教育の価値も適切に評価されるんだろうかというと難しい。文部科学省の大学院重点化によって学部より修士・博士であればブランド大学でも入りやすい現実ってあるし、残念ながら大学が浮世離れしており企業が教えて欲しいと思っていることを教えられる訳でもなく、これから企業に博士号を評価せよといっても難しいだろうなと悩んでしまう。
学部時代から仕事ばかりに現を抜かしてのし上がった、修士さえ持ってない企業派遣大学院教員って微妙な立場である私としては「ほーら学歴は大事じゃないんだよ」って図に乗る訳にもいかない。院生には自分で居場所を創った連中と接してもらい、日本社会ってこう回ってるんだぜって刺激を与えることも大事な仕事ではあるが。まあ、大学の数や大学教員のポストを守るために大学院重点化を進めた文部科学省くらいは、責任取って隗より始めるってか年次重視を改め学歴を適切に評価してはって気もするが、それはないものねだりだろうか。
学歴軽視・学校歴重視って、実のところ戦後民主主義の負の側面ではある。何でもかんでも大学と名付けて権威を失墜させ、教授に見込まれれば同じ研究室に属し続け、ポストを得る徒弟制度を通じた学歴と別の階層構造ができた。それはそれで企業の年功序列と相似形ではある。夢野久作とか坂口安吾くらいまでは、戦前まで博士信仰とか誰某に銀時計みたいな世界はあったが、あの時代は学士でさえ学士様だった訳で、戦後の学制改革を通じて権威は大いに損なわれたのだろう。
弾さんの自分の能力を認めさせることが勉強ってのは鋭い指摘だが、それを野良でやれる奴は制度にエンパワーされなくたって社会で居場所をつくれるのであって、教育制度に少なからず財政資金を注ぎ込むからには、博士様には真面目に学問していただき、多少は不器用であっても社会から崇め奉られ、修士1年や博士2年の途中から就職活動に現を抜かさなくたって世のため人のための仕事をしていただけるようでなきゃ社会の損失ではないか。
そういった点でアカデミズムの在り方って、学士様、末は博士か大臣かと崇め奉る一方で、学問をやると馬鹿になるといった世知も生きていた戦前が健全である気がするというか、戦前戦後ともエートスに変化はないが、需給が壊れて受け皿がなくなってしまったからだろうか。文系よりは理系の方が多少は学歴が機能しているのは、大学以外に研究者としてのキャリアパスがあることが大きそうだ。しかし日本の企業内で理系研究専門職の地位は必ずしも高くないのではないか。
深く考えなくとも進級した先にポストがあるというパイプラインシステムって大学院重点化とか、高度成長以前のキャリアパスを団塊世代以降も維持しようとして決定的に破綻してしまった感がある。これは文部官僚の怠慢だが似たような矛盾は我が国の至る所に散見されるし、彼らが阿呆だったというよりは日本人ってか戦後の日本的システムなる何かの宿命だったのだろう。
わたしは小学校まで勉強のできる子供だったので、そういうものに対する偏見への憤りに共感できるところはある。しかし中学以降に避けがたくドロップアウトした者として、思春期にもなって本当の世の中の仕組みに気付かなかったのであれば、それは自業自得じゃないか、勉強が足りなかったんじゃないかという突き放した視点もある。
しかし世の中みんな自分のような不良であれば非常に困ったことになるはずで、博士課程まで勉強のできる子供で居続けられる優秀かつ奇特な人々に対しては、彼らの世渡りが多少は下手であっても腕を振るえる居場所を用意しなければ文教予算の元を取れないというか、誰のために何を極めさせているのか分からない。問題は研究者が自慰と性交を取り違えることではなく、自慰を極めた方が研究者として居心地のいいホモジニアスな空気にあるのではないか。
それは大学界とか、その馴れ合いを看過し続けた文部科学行政に限らず、我が国の政官財にも瀰漫している病理でもある。だから学者は学部、修士、博士で他流試合をし続け社会化されるべきだし、企業は新卒一括採用とか年功序列を改め職務給に切り替えるべきだ。政官財を回転ドアのように行き来し、組織忠誠ではなく職務忠実に生きる人材を増やすべきだ。戦前にこれほどの近代化を成し遂げた国なのだから、本質的には国民性ではなく国家経営の問題ではないか。
と言うは易く行うは難しで、お前はいつまで居心地のいい外資に居座っているのかという批判もあろう。それは僕の抱えている悩みではある。今は持ち場で学問とか学者に敬意を払いつつ、院生に対して多少は生きる道を説くくらいしか出来ていない。格好悪くても世の中の仕組みを徐々に理解しつつ、自分が手をつけられる部分から、少しずつ動かしていくしかないのだろう。
大学への就職というのは、あまり業績があり過ぎると妬まれて不利になるから、なるべく少なめにしておくというのが、学者の処世術だ、って私が言うのも変だが、同様に、汗水たらしてノイローゼになって博士号をとって、それで不利になるのじゃ割にあわなすぎる。有力なコネがあるとか親が有力者だとかいうのでない限り、博士号なぞとるのは考えものだ、ぞ。
研究は、自分たちだけでも出来る。
勉強は、そうではない。自分たちと価値観が異なる人々に、自分たちの価値を認めさせるのが勉強である以上、そこには他者が必ず存在する。
学習や研究や研鑽を勉強と称するのは、自慰と性交を取り違えるようなものではないのか。