雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

それホント学問じゃなく説教だってば

だいたい経済学って小難しい上に退屈なのである。ミクロ理論は現実からかけ離れたモデルの上に成り立ち、マクロ理論は話が大き過ぎてピンとこない。似たような数式やグラフを使って正反対のことを語る人々がいるし。経済を理解するための道具が経済を予測したり影響を与えたかの実利で評価されていたり。分かりようのないことも分かりきったこととして竹を割ったように語り、人口に膾炙する説教に乗せてくれないと分かった気になってもらえない。そして残尿感のある話なんか、政治家もマスコミも大衆も最初から求めていない。

企業経営者に経営の心得を説いたり、大衆にモラルを説教したりする経済学者は、仮に自由主義を標榜していても、経済社会を支える人間の精神改造を夢見る点で、実は心情的に宗教家、ないしは共産主義者にかなり近いのではないだろうか。 (略) 国民の経済への理解を高めるのももちろん重要だが、それよりもまず、専門家たちの知的退嬰を何とかするのが我が国に課せられた喫緊の課題であるように思えてならない。

知的誠実さを持って正確さを期せば退屈かつ曖昧となり、世間で目立とうとすれば割り切って話を単純にせざるを得ず、声の大きな人ほど業も深いのではないか。これは学問だけに限らず宗教の時代から抱えていた問題で、民衆への説法と本来の教義とは大きく異なっていたり。けれども真実を探求することと衆生を救うことは同じように大切であるかも知れず、矛盾や飛躍した物言いを直ちに馬鹿にしたものでもないではないか。
だいたい経済学と経済論壇が別のゲームで、政治やマスコミに対して影響を与えているのが経済論壇とすれば、学問としては知的退嬰であるかにみえる言説そのものが、ゲームを勝ち抜くための修辞や作法という側面もあろう。誰を味方にし、何にどう影響を与え、どのような結果を勝ち取るか、計算した上で理論的には矛盾を孕む物言いをせざるを得ないこともある。それは誰に重用され、どういった柵と政治的野心を持っているかと不可分だし、そういった制約の中で知的水準や誠実さを問われ、勝ち抜いてきた人々が今の状況にある。
それを彼らの知的退嬰と捉えるより、どうして日本で学問的に正しい専門家と政治的に正しい専門家とが離れ過ぎてしまったか考え抜くことこそ、実は求められているのではないか。と、時に俄勉強で背伸びして専門家のふりをせざるを得ない私は悩む。